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「神の子どもたちはみな踊る」を観る(感想4:片桐と高槻、その陰と陽)

繰り返しの説明になるが、原作では別の独立した2つの短編を、舞台では「蜂蜜パイ」の主人公・淳平が劇中で「かえるくん、東京を救う」を執筆する、というかたちで一つの物語として融合させている。

「蜂蜜パイ」と「かえるくん、東京を救う」に共通した登場人物はいないのだが、一人だけ二役のキャストがいる。「蜂蜜パイ」の高槻と、「かえるくん、東京を救う」の片桐を演じる川口覚さんだ。
高槻は高校時代はサッカー部のキャプテンをしていて、背が高く肩幅が広い。ひとなつっこい顔立ちで、現実的で決断力があり、どこのグループに入っても自然にリーダーシップを取るタイプ。典型的な陽キャ。
高槻と対照的に、片桐は、身長1メートル60センチしかないやせっぽち、口べた、人見知り、運動神経ゼロ、などなど。こちらもまた、典型的な陰キャ。
この外見も正確も対極にある二人を、どうして一人が演じる必要があるのだろう?
舞台上での振る舞いを見ても、片桐と高槻はまるで別人。同じ人が演じているのに、心なしか高槻は大きく、片桐は小さく見える。
でも、物語が進むにつれ、そんな二人が不思議と少しずつリンクしてくるのだ。

片桐は、自分の命に重みを感じていない。両親は既に他界、妻子もなく、弟と妹も手を離れた。しかも自分にはなんの取り柄もない。
そんな片桐は、やくざまがいの者たちを相手にした貸付金の取り立てでは好成績を残している。
「新宿歌舞伎町は~!」と狂ったように叫ぶ片桐から感じるのは、生に執着しないからの凄みであり、得体の知れぬ恐ろしさだ。
自分たちが一番怖いと思うものを恐れない人には敵うわけがないのだ。

大学時代、生命力にみなぎっていた高槻は、新聞社への就職後、その輝きが損なわれていったように見える。
舞台上手、セットの箱にしまわれたクシや整髪料などで表現された洗面所で慌ただしく身を整えながら、自分が見たありとあらゆる死体について語り、下手側へ。
バラバラになった轢死体、銃で脳味噌を撃ちぬかれた死体…生きていれば肉の区別はつくかもしれない、でも死んだら同じ肉の抜け殻だ!
そしてセットから突然落下する箱。その死体のような箱を舞台袖に投げつけて、高槻も去っていく。
かつての自己愛に満ちていたように見える高槻はもうそこにはいない。
高槻が見てきた数多くの死体のように、自分も死んでしまえばただの入れ物に過ぎない。
先にあげた身支度のシーンからも、どこか自分を乱雑に扱っているようなニュアンスが感じ取れる。
もしかすると、小夜子に本当には愛されない自分は抜け殻だ、という思いもその虚無感を深める一因だったのかもしれない、というのは考えすぎだろか。
こうして、かつては見えなかった高槻の「陰」の部分が表れ始めると、その姿は片桐と重なってくるような気がする。

一方で片桐は、かえるくんと出会い、ともに東京を救うという使命を得ると、生への執着が出てくる。
歌舞伎町で革ジャンの男に撃たれる時、片桐は確かに恐怖を感じている。おそらく以前の片桐なら、その運命をそのまま受け入れていたのではないか。
でも舞台上の片桐は、銃を持つ男に怯えていた。東京を救うために生きなければならないから。
一時交わった高槻と片桐は、ここでまたその距離を離していく。

高槻と片桐は、物語の地点によって、近づいたり、遠ざかったり。
高槻を片桐を、一人の人間が演じることで、同じ人の中にある陽の部分と陰の部分が表現されているように思う。

何かのために生きることが箱の中身であるなら、私たちはその箱を満たすことも、空にすることもできる。
高槻もまた、形だけだったかもしれない小夜子との関係から抜け出して、扉の向こうに新しい役割を見つけているだろうか。

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