「神の子どもたちはみな踊る」を読む(番外編~熊と蜂蜜と鮭と鱒と私~)
そろそろ、古川雄輝がブラと同じくらいこだわっている、熊についての話をしようじゃないか。
「たとえば、小夜子と高槻の子供の沙羅に話す、淳平がこしらえた2頭の熊が出てくるお話があるのですが、それは僕が演じる淳平と友達の高槻のメタファーに見える、とか」(エンタメステーション)
…実は、まさきちととんちき、じゃなかったとんきちが淳平と高槻のメタファーである、という解釈は、私にはピンと来なかった。
まさきちととんきちは、淳平が作った物語の中で、一度離ればなれになる。しかし淳平と高槻は、小夜子と高槻の関係が破綻しても、その仲が壊れることはない。だから、素直にまさきちととんきちが、淳平と高槻の関係性をなぞるのは難しいように感じたからだ。
ところで、ジョージ・オーウェルの、「象を撃つ」というエッセイがある。
おい、熊の話をするって言ったそばから象かよ!というツッコミは、少しの間飲み込んでおいていただけたら幸いだ。
村上春樹の「1Q84」は、ジョージ・オーウェルの近未来小説「1984年」を土台にしており、村上氏がジョージ・オーウェルの影響を多分に受けていることは間違いない。
「象を撃つ」の内容は、簡単に言うと、大英帝国の警察官としてビルマに勤務していたオーウェルが、発情期を迎え町に逃走した象を銃で撃つ、というものである。
「UFOが釧路に降りる」でシマオさんが熊よけの鈴を振りながらセックスするシーンで思い出したのがこの話だった。
発情期に暴走し、人間を襲う象。性交する男女に、背後から襲い掛かる熊。その二つが、抑えきれない本能をイメージさせる点で共通しているような気がしたからだ。
つまり、象=熊=本能の象徴、と言っていいのではないだろうか、と。
(人間の力では防げない、突然訪れる脅威=地震とも受け取れるが)
「蜂蜜パイ」に戻る。
まさきちは、理知的な熊だ。言葉をしゃべったり、お金の勘定をしたりすることができる。
一方、とんきちは、鮭を捕るのだけはうまい、普通の熊だ。
だから、とんきちは、本来の熊の特性である、本能的な動物であり、「普通の熊さんとはちょっと違う」まさきちは、理性、抑制を表すものと考えてみる。それは、淳平の中でせめぎ合うものである。
淳平は、小夜子を自分のものにしたいという欲求を、ずっと抑え込み、消極的な姿勢を取り続けてきた。とんきちが鮭を捕りすぎて下山せざるをえなくなってしまったように、可哀想なとんきちをまさきちが救えなかったように、うまい落としどころが見つからないからだ。
そんな淳平に、「もっとうまいやり方はなかったの?」と小夜子は問う。
小夜子が言っているのはもちろん熊の物語についてだが、一向に関係を進展させようとしない淳平への苛立ちにも聞こえる台詞だ。
結局、淳平は小夜子と関係を結び、まさきちととんきちの物語にも新しい結末を与える。
それは、自分の意思にしたがって物語を進める、うまいやり方を淳平が見つけようとしているように思える。
…と、ここまで書いてはみたものの、やっぱり古川さんの言うように、淳平と高槻のメタファーの可能性も捨てきれないのだ。そしたら、蜂蜜が小夜子なのかしら?それとも鮭か。鱒はサケ科。そんな風にぐるぐる考えている私は、淳平と同じくらい煮え切らない。
果たして鮭が川から消えてしまう前に、舞台で答え合わせができるだろうか。シューベルト「鱒」をBGMに、もう一度考えてみよう。