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認識することのできない、ご縁のはたらき

縁起(プラティートヤ・サムトパーダ)の観念が仏教思想の根本にあります。「あれがあるから、これがある」「あれが生じるから、これが生じる」といったように、物事・現象には必ず原因となるものがある、というものです。

因果応報という言葉には、良いことをすればよい結果がもたらされ、悪い行いをすれば悪い結果が現れてくる、という意味があるかと思います。そのように、ある出来事や物事の過去を遡っていくと必ず原因となるものが存在しているというのです。

しかしながら、物事のすべてを自分が認識し把握できると確信している人にとっては、この観念があだとなる可能性があると思います。せっかくあの時良いことをしたのに見返りとしての良いことがない。むしろ悪い結果が返ってきた、などのように。因果応報でありつつ、無償の愛というような見返りを求めない慈悲のはたらきを修行として説くのが仏教であり、若干矛盾に感じることもあるでしょう。

ただ、密教では「三力」という教えがあります。

仏さまの力 

自分自身の努力による力 

法界の力 

というものによって、この世界のあらゆる物事が成り立っているというのです。仏さまの力は、言うまでもなく、お寺のご本尊をはじめ、偉大なブッダの不可思議な力です。自分自身の努力による力とは、我功徳力(がくどくりき)ともいいますが、自分が精進し、努力し、得られる心の強さであり、地道に積んでいくものです。

そして、法界の力が最後にあります。法界とはこの世界、宇宙といっていいでしょう。この宇宙には物理法則が決まっていて、それによって物質は動いています。また、物質だけでなく、人をはじめ生命には精神、意志というものがあります。物理法則があり、そこに精神のはたらきが相まって物事・現象が起こってきます。

その関係性はわれわれ人間がすべてを把握できるほど単純ではなく、不可思議なものですから、そのことを受け入れたうえで生きていけないと、悩み苦しみが生じてしまいます。自然災害などは人間の意志など関係なく起こり、人間界に大きな被害をもたらします。今のコロナパンデミックもわれわれが認識できないところで起こっているものです。

そういった法則や関係性があった上で、目の前に起きてくる事柄は、たまたま偶然に現れたものと捉えることができるとよりポジティブになれるのではないかと感じています。確かに自分の努力なしには成し遂げられないことは多くあり、我功徳力を欠いてしまってはダメですが、自分の力でできることと、どうにもできないものを見極め、それを受け入れられることができると良いのだと思います。

例えば、電車に乗り遅れた時、イライラするのではなく、この待ち時間を読書の時間にするご縁をもらったとか、生憎の雨で外に出かけられない時には、このご縁で家でしかできないことをやろう、などと受け入れポジティブな行動がとれるようになると素晴らしいです。そこには自分の固定観念を突破した新たな発見があるはずです。

受験なんかも同様で、もちろん必死に勉強することも必要ですが、その上であとは天任せ、運に任せるといった時、仏教の「三力」に従えば、仏さまや法界の力に委ねるということでしょう。そこで自分の希望通りいかなかった際には、心が苦しむのは当然ですが、自分のできる範囲のこと、つまり一生懸命に勉強したことに自負があり、それ以外にも認識できる領域の外に不可思議な大きな力がはたらいているのだということを、受け入れられていれば、次のことにうまく進んで行けるのではないでしょうか。

言葉ではなかなか理解しがたい仏教の教えですが、坐禅だったり、マインドフルネス瞑想という形で、普段忙しく動き回っている自分の心を落ち着かせて、考える時間をもつことも大切です。

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