真言宗僧侶Kの小話

在家から出家し、地方寺院で僧侶をしています。 仏教は私にとって迷った時の拠りどころ、か…

真言宗僧侶Kの小話

在家から出家し、地方寺院で僧侶をしています。 仏教は私にとって迷った時の拠りどころ、かつ生き方を示してくれるものです。 変化の激しい現代で様々な状況にアジャストする力をも与えてくれます。 有難い教えを多くの方と共有できればと思います。

最近の記事

立ち止まってみる

「肉を切れる人がいません」  副反応で欠員、スーパーの貼り紙が話題 https://withnews.jp/article/f0210827004qq000000000000000W08k10201qq000023532A もう3年も前になりますが このような記事がありました。 この記事では、青森県のスーパーでの 出来事が取り上げられています。 精肉担当の従業員の方がワクチン接種の副反応の為に出勤できず、やむなくほとんど空っぽとなった精肉コーナーの棚に張り紙をした様子を

    • 自分の意志で

      これは、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ) として知られる教えです。 意味は、 悪いことをしてはならない 善いことを行うべし 自らその心を清らかにせよ というような 命令の形での教えではありません。 悪いことをすることなく 善い行いをし 自身の心を清らかにすること というような 他者から命令され、実践していくべきものではなく 自らが自分の意志で行っていくものです。 仏道修行においては戒律があります。 集団の中で規律を守ること また、煩悩から身を防ぐものとして 様々な

      • 煩悩はなぜ108か

        煩悩というと、欲や執着、怒りといった心を乱すもののことをいいます。 除夜の鐘などでは、108回鐘を鳴らすことで 煩悩を打ち破るとされます。 すなわち、百八煩悩というように 煩悩の数は108あるとされます。 ではなぜ108個の煩悩があるとされるのでしょうか。 いくつかの説があるとされますが そのうちの1つを紹介します。 煩悩と同じような意味の言葉として 随眠(ずいめん、ずいみん)というものがあります。 「悪いものへの傾向」や「悪い習性」 「表面に現れる煩悩に対して表

        • 瞑想の基本、呼吸瞑想

          仏教瞑想というと、様々なやり方がありますが、 呼吸瞑想は初心者でも行いやすいです。 心の散乱を押さえ、 身体を安定させる効果があります。 すなわち、心の乱れがなくなり 心と体が軽くなって物事への集中が高まる ということが経典に説かれています。 瞑想がすべての人にとって良いものかどうかはわかりませんが 多くの人にとって 心の安らぎ、そして、様々な気づきを与えてくれるものだろうと 思います。 正しくは坐蒲や座布団に座って 姿勢を調えて行います。 片方の足を逆足の上に乗っ

        立ち止まってみる

          無我 ~関係性の中で~

          「無我」は 仏教にとって基本的な考え方です。 これを現代人に対してどのように示していくかが仏教者として重要な役目だろうと思います。 「無我」というと、「無我夢中」という言葉がすぐ浮かんでくるかもしれません。 我を忘れて何かに一心に取り組んでいる状態のことですが、誰しもそのような経験をしたことがあると思います。 とはいえ、「無我夢中」は、本来の「無我」のほんの一側面しか表していません。 「無我」とは「非我」ともいいますが、「変わらずにそのままの状態を保つものは無い」と

          無我 ~関係性の中で~

          邪魔とは何か

          「邪魔」という語は、広辞苑によれば  ①仏道修行をさまたげる邪な悪魔。  ②さまたげ。障害。   ③他人の家を訪問すること。  (お邪魔をする、という形で) とあります。 「邪魔」は、仏教用語から来ていると考えられます。 煩悩と結びついた悪魔のことを指すサンスクリット語のmāra(マーラ)という語が漢訳され「魔(魔羅)」となり、それは修行の進展を阻害する「邪な」ものであるから、「邪魔」と呼ばれるようになったのです。 今日では、仏教とは関係なく一般的に使う語ですね。

          護身法とは

          真言宗では、護身法(ごしんぼう)という作法を行うのが常となっています。手に印を結んで、真言を唱えながら、心を一点に集中させていきます。勤行や法要を勤める際、まず初めにこの護身法の作法をし、自らの三業(さんごう)を清らかにします。 三業は、身(しん)・口(く)・意(い)の三業といいますが、仏教ではわれわれのはたらきを身体的なもの、言葉によるもの、心によるもの、というように3つに分けて考えます。人間の体には自我や欲望が無意識下に付きまとっていますから、何も意識していないと、汚れ

          ¥100

          あらゆる存在が互いに支え合っているという感覚

          今年も残り僅か。 そんな中、とある症状の為に病院に行ってきました。 根本的な解決には至らなかったですが、良い先生に診てもらえ、気分良く帰ってきました。多くの患者さんが入れ替わり立ち替わりで忙しい中、症状の原因の可能性をいくつかあげてくれたり、質問にも的確に答えてくれました。 人はケガをしたり、病気をすると医者のもとへと向かい、治療してもらったり、治す方法を教えてもらい、それによって安心を得ます。お医者さんは、身体の不調を抱えた人に対して、心の安寧を与える役割をもってこの

          あらゆる存在が互いに支え合っているという感覚

          知識や情報が手助けに

           「如実知見」とか、「ありのままに見る」ことが仏教修行では大事だとよく言われます。  自分自身の色眼鏡、すなわち固定観念や偏見、既成概念にとらわれた見方を捨て去った上で、物事のありのままの姿を観察できることが、仏の眼で見るということでしょう。  それは、単に坐禅をしまくって深い瞑想状態に入るとか、熟練した修行者はどこでも心を落ち着けることができて、どんな状況でも深い瞑想へと入っていける、ということだけでは実現されないものだと私は思います。  仏さまの智慧を身に付けるため

          知識や情報が手助けに

          選択肢が多すぎる

           現代社会を生きていると,昔よりも個人の自由さがある一方で,あらゆる場面で選択肢が多すぎるなと感じます.  洋服が良い例ですが,Tシャツ1つとっても,無地なもの,様々な柄物,無地であっても胸ポケット付き,オーバーサイズのもの,たくさんのバリエーションが並び,チョイスに困ります.  物が欲しいと思った時にはすぐに手に入り、何かを買おうと思った時には、多様な需要に合わせて多くの選択肢があることは良いことですが,逆にいきすぎてしまっているようにも思います.ミニマリストという言葉

          選択肢が多すぎる

          レンジ瞑想

           瞑想はどこでもできます。  一般に、集中瞑想と洞察瞑想という言葉で2つに分けられますが、どちらもいつでもどこでもできるものです。  例えば、レンジで1分待っている間、1:00、0:59、0:58とデジタル文字が変わっていく現象に対して、意識を集中させることは集中瞑想だといえます。  ふつう、坐禅などでは、呼吸瞑想といって自分自身の呼吸に意識を向けていくという形の集中瞑想を行います(いわゆる「止」)。  同じように、レンジのタイマーにじっと意識を向けていき、雑念がわい

          人生案内

          死生観の悩み死生観で悩む人は多くいると思いますが、その程度は様々です。深刻な問題となり、坐禅に打ち込む人や出家するなどして仏教に頼りを求める人もいます。とにかく一心に仏様や神様にお祈りする方もいます。宗教でなくても、拠り所は様々でしょう。 あるお坊さんは、死というものを意識して生きていない人が多い。なぜ、死生観をもって生きないのだ、ということを述べていましたが、どうなのでしょう。私は、生きている中で悩み苦しみによって問題がないのであれば、特に宗教観をもったり、死生観をもつ必

          楽とは

          仏教で説く「楽」とは何でしょう。 漢訳仏典でみられる「楽」は、原語のサンスクリット語では、sukhaといいます。英語ではpleasantとかeasyなどと訳されているようで、日本語でいえば、「楽しい」とか「安楽」とか「快い」という意味となります。 何か趣味に没頭している時間は、自分にとって心地の良い安楽なものですし、家族や親しい友人と楽しい時間を過ごすのは幸せなものです。また、最近は、仕事はお金の為に費やす嫌な時間と捉えるのではなく、自分が主体的に取り組めることを職として

          本気の祈り と 何となくの祈り

          「祈り」には、  本気の祈り と 何となくの祈り があると思う。 祈るという語には、神や仏に対して幸いを請い願うとか、心から望む、という意味がある。日本人は無宗教だと揶揄されるが、われわれは生活の中で至る所でさまざまな祈りを行っている。 当然、ご先祖さまや亡くなった故人に対しては、成仏することの祈りを捧げるが、宗教的な場面だけでなく、受験の前に祈ったり、病気やケガが治るようにとか、仕事がうまくいくようになど、生活の中の色々な場面で祈りの行為を行っている。 そのように、

          本気の祈り と 何となくの祈り

          認識することのできない、ご縁のはたらき

          縁起(プラティートヤ・サムトパーダ)の観念が仏教思想の根本にあります。「あれがあるから、これがある」「あれが生じるから、これが生じる」といったように、物事・現象には必ず原因となるものがある、というものです。 因果応報という言葉には、良いことをすればよい結果がもたらされ、悪い行いをすれば悪い結果が現れてくる、という意味があるかと思います。そのように、ある出来事や物事の過去を遡っていくと必ず原因となるものが存在しているというのです。 しかしながら、物事のすべてを自分が認識し把

          認識することのできない、ご縁のはたらき