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本気の祈り と 何となくの祈り

「祈り」には、

 本気の祈り と 何となくの祈り があると思う。

祈るという語には、神や仏に対して幸いを請い願うとか、心から望む、という意味がある。日本人は無宗教だと揶揄されるが、われわれは生活の中で至る所でさまざまな祈りを行っている。

当然、ご先祖さまや亡くなった故人に対しては、成仏することの祈りを捧げるが、宗教的な場面だけでなく、受験の前に祈ったり、病気やケガが治るようにとか、仕事がうまくいくようになど、生活の中の色々な場面で祈りの行為を行っている。

そのように、一括りされる祈りであるが、その「祈り」が本気の祈りなのか、何となくの祈りなのかは大きな違いとなる。坐禅をはじめとする様々な仏教の実践では、この本気の祈り、一心な祈りというのがキーとなると思う。

本気の祈りとは、とにかく自我や自分の意志でどうこうというのを一切捨て去り、祈りの対象に身を任せることである。出家し本気で仏と成ろうと発心するならば、日々のお勤めでは一心にお経を唱えることになろうし、ご本尊への礼拝の際には、まさに身を投げ出す思いとなろう。

仏教瞑想では、この祈りが根底になければならないと思う。ただ単に心の作用を鎮めて落ち着け、安らかな状態になろうとも、それは一時だけであり、その瞑想から出てしまえば、また心は揺れ動いていく。

一般社会では、自我とか意志を使って生活するのが通常である。しかし、仏教をはじめ宗教というのは、そこから離れた領域にあるのであり、すなわち自我や意識を無くした体験をするのが仏教修行の根底にあるといえる。「無我」である。

本気の祈りは、仏教修行の場に限らない。例えば、自分の死を意識せざるを得ない体験や経験によって人生に虚無感や絶望感を感じた時、人は何かに祈りたくなるものである。それが仏さまであれば、お寺にお参りして祈りを捧げるわけだが、その時の祈りはまさに「本気の祈り」である。その祈りには、自我はなければ自分の為の欲もない一心なるものである。

あるいは、生きる意義を見失ってしまった時にも、人は虚無を感じたり、絶望感に苛まれる。その時、それでも生きなければという意志が起こると、何かへの祈りを探し求める。それは生きる上での拠り所を求める心のはたらきともいえる。その心の祈りのはたらきには、自分の為の利益を求めるような自我意識はなく、本気の祈りといえるだろう。

何となくの祈りを否定しているわけではないが、特に本気の祈りはとてつもなく大きなエネルギーをもっている。人間のもっている生命の根源的な力である。大乗仏教の思想では、その大きなエネルギーを他者の救済へと向けていくことが重要なポイントとされていることからも、そのエネルギーを感じた時には、それを大事にすると良いだと思うのである。

虚無主義的には、人生は最終的には死んで終わりで、死んだら何もあの世に持っていけないし、それまでのプロセスも意味のないものだということになるが、それを越えていくところに仏教思想の素晴らしさがある。

私自身、人生への大きな絶望感を感じたことはないが、仏道を実践し、仏教の世界観、哲学を拠りどころにして生きているつもりである。それはつまり、それらに対して「本気の祈り」をもって生きているということであろう。

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