母と思うと辛いから。年老いた母との付き合い方
先日、母の姉のお墓参りに山口県を訪れました。
母の母は、山口県仙崎の生まれで、母の姉は小郡市に住んでいました。
コロナ禍でしかも母はその間手術をしたので、葬儀に参加できず気にかけていました。
羽田乗り換えや旅行期間が長いため、私も一緒に行くことにしましたが、離れて暮らす私はいつも口げんかばかりで、果たして旅中どうなるか心配でした。
もう、これは修行でござる
と、自分に言い聞かせて覚悟の旅に出ました。
搭乗前から、トイレや荷物で母の老いを見るにつけ、ケンカどころか少し切なさが湧き上がりました。
娘との旅を最後と思っているでしょうね。きっと。
そんなはしゃぎ方でした。
いっぱいイラつくことがありましたが、同時に胸が痛む切なさも増えていき、
わたしがこれまでイラついたのは、
親らしくしてほしいと思っていたり、親なのにそんなこと言う?という思いからだったけれど、
もう、
母らしくとか親なのにとは、思ってはいけないんだなとわかりました。
親らしい尊敬できる姿は無理なほど、認知機能が老いてきたのです。
母の場合は、
やりたいことをやめられない、
ほどほどでやめられない
思ったことを言ってしまう
時間の見通し
人とのやりとりが面倒
というところですが、
もう、キツイ言葉で遠くに住む母を管理するのはできないというより、
ますます問題行動がひどくなるのですね。
親には変わりないですが、
お嬢ちゃんに戻ってしまった母なんだなと、お嬢ちゃんという新しい母として関わろうと決めたら、とっても心が軽くなりました。
お嬢ちゃんだと思ったら、
何しても「そうだよね」
「こわかったよね」
「たいへんだよね」って
言えるようになりました。
ちょっと、面白いくらいに。
これから、もっと深刻な課題がでてくるのだろうから、
なおさら、
それまでくらい、お嬢ちゃんで可愛がるしかできないんだなとちょっと寂しくなった、今回の旅。
ほんとに、
ケンカできるうちが、花ですね。