どうしたらいいかわからなくて、結局気持ちを綴っている。
3日ほど前、夜のお散歩に出かけた。財布とスマートフォンを小さな鞄に詰め込んで、普段は履かないスニーカーに足を入れた。
イヤフォンの先からは、彼の声がする。最近よく電話をする相手の彼は、私を深夜のお散歩に連れ出してくれた。
Twitterには夜のお散歩から戻ってすぐ、心から溢れてきた喜びを呟いた。それほどお散歩は楽しかった。
私は、その夜のお散歩のことをnoteに書こうとしていた。彼と話しをしながら、歩きながら、私はわくわくしていたのだ。
深夜のお散歩は長年の夢だった。ベッドの中で何度空想したかわからない。女性として生きてきた二十数年の人生で、深夜2時という「危ない」時間にしんと沈んだ澄んだ空気の中を歩けるとは思っていなかった。
さあ書こう、とnoteを開いて文字を打ち込む。たくさん伝えたいことがあった。悪いことをしているという気持ちと、寝静まった街の中を誰かと繋がった状態でひとり歩いたことを、話したくて仕方がなかった。
しかし私は、その記事をいまだに書き上げられずにいる。
昔から文章を書くのが好きだった。Twitter、ブログ、日記、手紙、小説……。多くの媒体で文章を書いてきた。例え読まれなかったとしても、心の内側を文章にして曝け出すことで私は私を保っている。
文章を書くことを生業にしてはいない。どちらかと言えば、話すことを仕事にしていて、丁寧に文章を綴るようなことを就職してからはしてこなかったような気がする。
私がnoteを再開したのは、丁寧に自分の気持ちを見つめる時間を得たかったからだ。静かに己に向き合う時間が、きっと必要だった。
以前使っていたnoteのアカウントはそのままにして、私は「くるみるく」という人格を作り上げた。中身は私なのだけれど、ネット上の知り合いやリアルの友人が知らない私が必要だった。
私は、新しく誰も知らないアカウントを作成することを、どこにもいない私を作る作業とよんでいる。
どこにもいない私を縛るものは、私だけだ。
私は、私の複数のアカウントという名の人格を使い分けている。中身は変わらないのに、見た目だけを変えたそれらによって、私の心の均衡は保たれている。
たくさんの人格を使い分けることを悪いとは思わない。仕事をする私、本が好きな私、甘いものが好きな私、暗い感情を吐き出す私、noteに掃き溜めを作った私。
いろんな私がいて、私は「くるみるく」を私の人格の坩堝にしたいと思っている。
私は、ある私が叶えた夜のお散歩の話しを書きたかった。誰かに、幸福を煮詰めてジャムにしたような時間を共有したかった。
したかったのに、できなかった。
できなかった理由は、きっとこう。私は、あの幸福な時間を過不足なく書き綴ることができない。言葉にできない複雑な時間を、文章に閉じ込めてしまうことができなかった。
夜のしんとした静かな空気。誰も歩いていない国道沿いの歩道。荷物を運ぶトラックの走行音。明るく周囲を照らすコンビニ。ホットスナックの売り切れたレジ横のケース。公園にいた可愛らしい猫。耳元から聞こえる、私の大切な友人の声。
どれだけ書き並べても、満足できない。
満足できないのに、私は今こうして書いている。書かなければきっと生きていくことすらままならない。溢れてしまった幸福を少しでも留めておけるように、稚拙な文章を綴っていく。
3日前の深夜2時、私は幸福な時間を過ごした。そしてまた、静まりかえった夜に駆け出そうと約束した。
耳元から大切な人の声を聞いて、目的のない小さな旅を繰り返す。いつか、この幸福を綴れるようにと願いながら。