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哲学者の千葉雅也氏による「サイゼリヤのメニュー番号管理ツイート」への私見

哲学者の千葉雅也氏のツイートが話題になっていた。

このツイートには賛否両方の反応が見られた。個人的には、賛否両方の反応に頷ける点があるように思う。

賛成寄りの意見としては、大野左紀子氏(大野氏と「いっちー」氏の会話)・伊藤弘了氏(伊藤氏と茨木シンフォニー氏の会話)のツイート等が挙げられる。

一方、小山晃弘氏などは否定寄りの意見である。

彼は「あなた(千葉氏)が担当する講座も10803とか70327みたいな番号が割り当てられてるじゃないか」「大学やサイゼリヤのように多種多様なサービスを消費者に提供する業種では、メニューの記号化がどうしても必要になってくる」「千葉氏は傲慢で幼稚な対応をしている」等の主張をnoteで行った。

こうした彼の主張に対して筆者は或ることを感じた。

それは、サイゼリヤのメニューが注文プロセスにおいて番号で呼ばれているのと違って、千葉氏が担当している講座は大学において番号ではなく講座名(フランス現代思想etc)か、その略称で呼ばれているのではないかということである。

もちろんサイゼリヤにおいてペペロンチーノがPA03と番号付けされているからと言って、客が注文の過程以外でペペロンチーノという料理のことをPA03と呼ぶことは恐らく無い。だが、メニューor人間が番号でしか呼ばれなくなる空間について考えたとしたらどうだろうか。

例えば、1940年代の強制収容所において、多くのユダヤ人は名前ではなく番号で管理された。ホロコーストにおける囚人の番号化は、名前の喪失が人間性の喪失に直結することを示している。

欧米のホロコースト教育でお馴染み「ひいお爺ちゃんの腕の番号」ジャック氏95歳で逝去(佐藤仁) - Yahoo!ニュース

筆者はサイゼリヤのメニューの番号化を肯定も否定もしない。サイゼリヤの店舗に入る機会があり、もし番号による注文を求められれば、筆者はそれに従うだろう。

現在、一般人の日常会話において料理名が番号で呼ばれているという現象は殆ど見られない。

だが、仮に「便利だから」という理由だけによって、知人・仕事仲間の名前が番号(数字)に置き換わった社会が到来したとしたら、そうした社会がどれほど快適なものだとしても、筆者はその社会から距離を置きたいと思う。

料理にしても、全ての食べ物が番号・マニュアルで扱われるようになったならば、食文化の劣化などという点での嘆かわしさが否めないと感じる方は多いのではないだろうか。





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