令和6年広島平和記念式典知事挨拶への私見
広島平和記念式典に関する時期は去年も書いたなと思いつつ、今年度も記念式典に関する記事を書いてゆく。
去年の記事と同様に、式典挨拶での湯﨑英彦知事の発言を引用する。
「哀悼の誠を捧げる」というフレーズで思いだしたが、「冥福を祈る」は日本語として不適切だと感じる人がいるらしい。「冥福を祈る」という意味のことを述べたい場合は、「哀悼の誠を捧げる」や「哀悼の意を表す」とするほうが無難なのかもしれない。
現代人の寿命は70~80年ほどなので被爆時に0歳や1歳だった方ですら既に天寿を全うされていてもおかしくない年齢となっている。「その最後の言葉を次世代につなげるべく」という湯﨑知事の言葉は重い。
筆者も国連には大きな欠陥があると考えている。イラク戦争といい、ウクライナ紛争といい、国連は常任理事国(や常任理事国の後ろ盾を持つ国)による軍事侵略をなかなか抑えられていないように見える。
人類が発明して使われなかった兵器が本当に皆無なのかは不明だが、国際条約で禁止されている化学兵器のなかには引き続き使われているものがあるというのは確かである。
筆者は「必ずいつか」という箇所を見て、「予言って具体的な期限を明示しないことが大事だったりもするんだよね」と感じた。
例えば、或る宗教家が「西暦〇〇年にハルマゲドンが起こる」と公言したとする。
仮に、西暦〇〇年になってもハルマゲドンが起こらなかった場合、その予言は信憑性が疑われることとなる。
一方、キリスト教は『マルコ福音書』に「例の日や例の時がいつなのかは誰も知らない。天にいる御使たちも、子も知らない。父のみが知っている」とあるように、具体的な期限を明示しない傾向にある。
具体的な期限を最初から提示しなければ、その予言から百年たって予言が実現していない場合でも「まだ、その時が来ていないだけだ」と強弁できるし、千年たって予言が実現していない場合でも「まだ、その時が来ていないだけだ」と強弁できる。
キリスト教が何千年も存続し、今なお膨大な数の信者を有しているのは、この傾向が影響しているのかもしれない。
「核廃絶は、いま必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題だ」と言われ続けて何十年も経っている気もするが、それは単に危機的状況が日常と化しているだけで「今、必死に取り組まなければならない現実の問題」というのは、その通りだと思う。
知事の「人類が核兵器の存在を漫然と黙認したまま、この痛みや苦しみを私たちに伝えようとしてきた被爆者を一人、また一人と失っていくことに、私は耐えられません」という思いに心うたれる者は多いだろう。
だが、この思いが核使用の可能性を示唆するプーチン大統領などといった権力者たちに届く保証はない。
核保有国の政治家たちが核放棄を決断し、全ての核保有国が全ての核兵器を放棄するまで、核廃絶は実現しないという現実は非常に過酷である。
この誓いの言葉に関しては様々な意見があり、「主語が不明瞭だ」という批判は根強い。
だが、筆者は、もしこの文の主語が「我々」や「人類」などであるのなら問題ないと考えている。
米国の原爆投下が非難されているのは、原爆を広島と長崎に投下したのが米国だったからではなく、原爆投下という行為自体が人倫に反しているからである。
核兵器の存在や使用という倫理的な問題は、先の大戦における枢軸国と連合国の間で起こった過去の問題ではない。
それは、人類全体に関わる問題であり、1940年代から今に至るまで続いている問題である。
「過ちは繰返しませぬから」が「我々、人類は過ちを繰返しませんから」という意味であるのなら、この誓いの言葉は核廃絶という目標に沿っていると筆者は考える。
核兵器の使用は長崎が最後になってほしいと強く願っているのは筆者だけではないと思うし、核戦争が勃発するリスクをなくす最もシンプルな方法は、核廃絶を達成することである。
全ての核保有国が核兵器を放棄する日が来ることを望んで本記事を結ぶこととする。
画像サムネイル:広島市長と広島県知事、あいさつで世界情勢に懸念 特定国批判はせず | 毎日新聞 (mainichi.jp)