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令和6年広島平和記念式典知事挨拶への私見

広島平和記念式典に関する時期は去年も書いたなと思いつつ、今年度も記念式典に関する記事を書いてゆく。


去年の記事と同様に、式典挨拶での湯﨑英彦知事の発言を引用する。

79回目の8月6日を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊(みたま)に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠(まこと)を捧げます。そして、今なお、後遺症で苦しんでおられる被爆者や御遺族の方々に、心からお見舞いを申し上げます。

原爆投下というこの世に比類無い凄惨な歴史的事実が、私たちの心を深く突き刺すのは、「誰にも二度と同じ苦しみを味わってほしくない」という強い思いにかられた被爆者が、思い出したくもない地獄について絞り出す言葉があるからです。その被爆者を、79年を経た今、私たちはお一人、お一人と失っていき、その最後の言葉を次世代につなげるべく様々な取組を行っています。

広島県知事あいさつ<2024年平和記念式典> | 中国新聞デジタル

「哀悼の誠を捧げる」というフレーズで思いだしたが、「冥福を祈る」は日本語として不適切だと感じる人がいるらしい。「冥福を祈る」という意味のことを述べたい場合は、「哀悼の誠を捧げる」や「哀悼の意を表す」とするほうが無難なのかもしれない。

現代人の寿命は70~80年ほどなので被爆時に0歳や1歳だった方ですら既に天寿を全うされていてもおかしくない年齢となっている。「その最後の言葉を次世代につなげるべく」という湯﨑知事の言葉は重い。



先般、私は、数多の弥生人の遺骨が発掘されている鳥取県青谷(あおや)上(かみ)寺地(じち)遺跡を訪問する機会を得ました。そこでは、頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢尻など、当時の争いの生々しさを物語る多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました。

翻って現在も、世界中で戦争は続いています。強い者が勝つ。弱い者は踏みにじられる。現代では、矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。それが弥生の過去から続いている現実です。

広島県知事あいさつ<2024年平和記念式典>

筆者も国連には大きな欠陥があると考えている。イラク戦争といい、ウクライナ紛争といい、国連は常任理事国(や常任理事国の後ろ盾を持つ国)による軍事侵略をなかなか抑えられていないように見える。



いわゆる現実主義者は、だからこそ、力には力を、と言う。核兵器には、核兵器を。しかし、そこでは、もう一つの現実は意図的に無視されています。人類が発明してかつて使われなかった兵器はない。禁止された化学兵器も引き続き使われている。核兵器も、それが存在する限り必ずいつか再び使われることになるでしょう。

広島県知事あいさつ<2024年平和記念式典>

人類が発明して使われなかった兵器が本当に皆無なのかは不明だが、国際条約で禁止されている化学兵器のなかには引き続き使われているものがあるというのは確かである。

筆者は「必ずいつか」という箇所を見て、「予言って具体的な期限を明示しないことが大事だったりもするんだよね」と感じた。
例えば、或る宗教家が「西暦〇〇年にハルマゲドンが起こる」と公言したとする。
仮に、西暦〇〇年になってもハルマゲドンが起こらなかった場合、その予言は信憑性が疑われることとなる。
一方、キリスト教は『マルコ福音書』に「例の日や例の時がいつなのかは誰も知らない。天にいる御使たちも、子も知らない。父のみが知っている」とあるように、具体的な期限を明示しない傾向にある。

具体的な期限を最初から提示しなければ、その予言から百年たって予言が実現していない場合でも「まだ、その時が来ていないだけだ」と強弁できるし、千年たって予言が実現していない場合でも「まだ、その時が来ていないだけだ」と強弁できる。

キリスト教が何千年も存続し、今なお膨大な数の信者を有しているのは、この傾向が影響しているのかもしれない。



私たちは、真の現実主義者にならなければなりません。核廃絶は遠くに掲げる理想ではないのです。今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題です。

にもかかわらず、核廃絶に向けた取組には、知的、人的、財政的資源など、あらゆる資源の投下が不十分です。片や、核兵器維持増強や戦略構築のために、昨年だけでも14兆円を超える資金が投資され、何万人ものコンサルタントや軍・行政関係者、また、科学者と技術者が投入されています。

広島県知事あいさつ<2024年平和記念式典>

「核廃絶は、いま必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題だ」と言われ続けて何十年も経っている気もするが、それは単に危機的状況が日常と化しているだけで「今、必死に取り組まなければならない現実の問題」というのは、その通りだと思う。



現実を直視することのできる世界の皆さん、私たちが行うべきことは、核兵器廃絶を本当に実現するため、資源を思い切って投入することです。想像してください。核兵器維持増強の十分の一の1.4兆円や数千人の専門家を投入すれば、核廃絶も具体的に大きく前進するでしょう。

ある沖縄の研究者が、不注意で指の形が変わるほどの水ぶくれの火傷を負い、のたうちまわるような痛みに苦しみながら、放射線を浴びた人などの深い痛みを、自分の痛みと重ね合わせて本当に想像できていたか、と述べていました。誰だか分からないほど顔が火ぶくれしたり、目玉や腸が飛び出したままさまよったりした被爆者の痛みを、私たちは本当に自分の指のひどい火傷と重ね合わせることができているでしょうか。人類が核兵器の存在を漫然と黙認したまま、この痛みや苦しみを私たちに伝えようとしてきた被爆者を一人、また一人と失っていくことに、私は耐えられません。

広島県知事あいさつ<2024年平和記念式典>

知事の「人類が核兵器の存在を漫然と黙認したまま、この痛みや苦しみを私たちに伝えようとしてきた被爆者を一人、また一人と失っていくことに、私は耐えられません」という思いに心うたれる者は多いだろう。
だが、この思いが核使用の可能性を示唆するプーチン大統領などといった権力者たちに届く保証はない。
核保有国の政治家たちが核放棄を決断し、全ての核保有国が全ての核兵器を放棄するまで、核廃絶は実現しないという現実は非常に過酷である。



「過ちは繰り返しませぬから」という誓いを、私たちは今一度思い起こすべきではないでしょうか。

広島県知事あいさつ<2024年平和記念式典>

この誓いの言葉に関しては様々な意見があり、「主語が不明瞭だ」という批判は根強い。
だが、筆者は、もしこの文の主語が「我々」や「人類」などであるのなら問題ないと考えている。
米国の原爆投下が非難されているのは、原爆を広島と長崎に投下したのが米国だったからではなく、原爆投下という行為自体が人倫に反しているからである。
核兵器の存在や使用という倫理的な問題は、先の大戦における枢軸国と連合国の間で起こった過去の問題ではない。
それは、人類全体に関わる問題であり、1940年代から今に至るまで続いている問題である。

「過ちは繰返しませぬから」が「我々、人類は過ちを繰返しませんから」という意味であるのなら、この誓いの言葉は核廃絶という目標に沿っていると筆者は考える。


核兵器の使用は長崎が最後になってほしいと強く願っているのは筆者だけではないと思うし、核戦争が勃発するリスクをなくす最もシンプルな方法は、核廃絶を達成することである。
全ての核保有国が核兵器を放棄する日が来ることを望んで本記事を結ぶこととする。



画像サムネイル:広島市長と広島県知事、あいさつで世界情勢に懸念 特定国批判はせず | 毎日新聞 (mainichi.jp)


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