![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/115548195/rectangle_large_type_2_11b19ffaa33d3e1718e0f8e222328526.png?width=1200)
七覚支について法を観つづける 中部#10 念処経 読了 その10 (法随観 七覚支)
中部#10 念処経 読了記事のつづき(その10)です。
法随観 目次
五蓋 (pañca nīvaraṇāni)五取蘊 (pañc-upādānakkhandhā)六処 (内処, 外処) (cha ajjhattika-bāhirāni āyatanāni)七覚支 (satta bojjhaṅgā)
四聖諦 (cattāri ariyasaccāni)
法随観 七覚支
(法随観を修習する)比丘は、次のように七覚支の法において法を観つづけて住む、と説かれています。内に覚支Aがあるならば〈私の内に覚支Aがある〉と知り、内に覚支Aがないならば〈私の内に覚支Aはない〉と知り、未だ生じていない覚支Aがどのように生じるかを知り、既に生じている覚支Aの修習がどのように成就するかを知る、と。
比丘たちよ、ここに比丘は、
内に念というすぐれた覚りの部分があるならば〈私の内に念というすぐれた覚りの部分がある〉と知ります。内に念というすぐれた覚りの部分がないならば〈私の内に念というすぐれた覚りの部分はない〉と知ります。また、未だ生じていない念というすぐれた覚りの部分がどのように生じるかを知ります。既に生じている念というすぐれた覚りの部分の修習がどのように成就するかを知ります。
第10 念処経
p.182
上記の前半部分のパーリ文は以下の通りです。
Idha, bhikkhave, bhikkhu santaṃ vā ajjhattaṃ satisambojjhaṅgaṃ
‘atthi me ajjhattaṃ satisambojjhaṅgo’ti pajānāti,
asantaṃ vā ajjhattaṃ satisambojjhaṅgaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ satisambojjhaṅgo’ti pajānāti,
パーリ文: tipitaka.org
Idha, bhikkhave ここに, 比丘たちよ
bhikkhu: m. 比丘, 乞者, 乞食者
santaṃ ajjhattaṃ satisambojjhaṅgaṃ 内に念覚支があることを
santa: [atthi の ppr.] ありつつ, 現存の;
善い, 正しい, 善人ajjhattaṃ: acc. adv. 内に, 自己に
satisambojjhaṅga 念等覚支
‘atthi me ajjhattaṃ satisambojjhaṅgo’ti 「私の内に念覚支がある」と
atthi: ある, 存在する
me: ahaṃ の acc. inst. dat. gen.
"atthi me …" で 「私に(私の)…がある」くらいの意味
ahaṃ 1人称代名詞 私
iti, ti: ind. 〜と, かく, とて
pajānāti: 知る, 了知する
asanta: a. 不存の,
不実の, 不真の, 不善の, 具悪のここでは、a-santa、santa の反対の意味で「存在していない」ことを意味していると考えてよいでしょう。
natthi =na atthi
na: adv. なし
"natthi me …" で「私に(私の)…がない」くらいの意味
パーリ語釈: 増補改訂 パーリ語辞典 水野弘元 (春秋社)
(打ち消し線は、辞書には記載されているが、文章中の意味には当てはまらないと思われる意味を表しています。)
七覚支
覚支 (bojjhaṅga [bodhi-aṅga] ) は「悟り (bodhi) の部分 (aṅga)」を意味し、悟りに至る直前の修行項目とされています。七種類の修行項目をまとめて七覚支 (satta bojjhaṅgā) といいます。
ここに覚支または等覚支とは「覚(悟り)の部分」ということで、悟りに至る直前の修行項目を指し、三十七菩提分法の七種の修行道の中では、七覚支がもっとも高い立場の修行法であるとされ、主として禅定に関係している。
… これらの七覚支は証智・等覚・涅槃に導くとされる。
p. 210-211 (一部省略)
スマナサーラ長老によると、七覚支の完成は心の解脱を意味するそうです。
ヴィパッサナー瞑想を完成して覚りに達するためには、七つの能力を完成させなくてはいけないのです。七つの能力が完成したところで、心は解脱に達します。七覚支と言っているのは、この七つのことです。用語の通りに、「覚りを完成する七つの部品(支)」という意味です。
アルボムッレ・スマナサーラ
法の随観
念覚支 (satisambojjhaṅga)
念あり、すぐれた智慧をそなえ、久しい以前に経験したこともよく憶持して忘れないこと
択法覚支 (dhammavicayasambojjhaṅga)
〈法の吟味というすぐれた覚りの部分〉
念ありて住し、憶持せる法を慧によって簡択(分別)思惟すること
精進覚支 (vīriyasambojjhaṅga)
その法を慧によって簡択思惟しつつ、精進努力すること
喜覚支 (pītisambojjhaṅga)
〈喜びというすぐれた覚りの部分〉
精進努力する者に精神的法悦が生ずること
軽安覚支 (passaddhisambojjhaṅga)
喜悦を生ぜる者に身心がともに軽快爽快となること
定覚支 (samādhisambojjhaṅga)
〈禅定というすぐれた覚りの部分〉
身心が軽快安楽となった者に心が統一すること
捨覚支 (upekkhāsambojjhaṅga)
〈平静というすぐれた覚りの部分〉
そのように統一した心をよく平等に観察すること
(〈 〉は片山訳。解説は「仏教要語の基礎知識」p. 211 からの引用です。)
択法は聞き慣れない言葉なので、解説を追加します。スマナサーラ長老によると、択法の「法」とは現象のことで、択法覚支とはあらゆる現象を吟味できる能力のことです。
二番目の覚支、 dhammavicayasambojjhaṅga
とは、法の吟味です。この場合の法とは、現象のことです。あらゆる現象を吟味できる能力は、解脱に達するために欠かせない二番目の能力です。
アルボムッレ・スマナサーラ
法の随観
その10 まとめ
七覚支において法随観を修習する時は、内に覚支Aがあるならば〈私の内に覚支Aがある〉と知り、内に覚支Aがないならば〈私の内に覚支Aはない〉と知り、未だ生じていない覚支Aがどのように生じるかを知り、既に生じている覚支Aの修習がどのように成就するかを知る、と七覚支の法において法を観つづけて住む。
法随観を修習して、内外のもろもろの法において法を観つづけて、もろもろの法において生起・滅尽の法を観つづける比丘には、〈法のみがある〉との念が現前し、かれは依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがない。
参考訳: パーリ仏典 中部 根本五十経篇I 片山一良 (大蔵出版)
つづく