五蓋について法を観つづける 中部#10 念処経 読了 その7 (法随観 五蓋)
中部#10 念処経 読了記事のつづき(その7)です。
法随観 目次
(法随観を修習する)比丘は、もろもろの法において法を観つづけて住む、と説かれています。修習者が観察する「もろもろの法」としては、以下のものが挙げられています。
五蓋 (pañca nīvaraṇāni)
五取蘊 (pañc-upādānakkhandhā)
六処 (内処, 外処) (cha ajjhattika-bāhirāni āyatanāni)
七覚支 (satta bojjhaṅgā)
四聖諦 (cattāri ariyasaccāni)
法随観 五蓋
(法随観を修習する)比丘は、次のように五蓋の法において法を観つづけて住む、と説かれています。私の内に蓋Aがあれば〈私の内に蓋Aがある〉と知り、私の内に蓋Aがなければ〈私の内に蓋Aがない〉と知り、未だ生じていない蓋Aがどのように生じるかを知り、既に生じている蓋Aがどのように断たれるかを知り、断たれている蓋Aが将来どのようにして生じないかを知る、と。
Idha, bhikkhave ここに, 比丘たちよ
bhikkhu: m. 比丘, 乞者, 乞食者
santa: [atthi の ppr.] ありつつ, 現存の;
善い, 正しい, 善人ajjhattaṃ: acc. adv. 内に, 自己に
atthi: ある, 存在する
me: ahaṃ の acc. inst. dat. gen.
"atthi me …" で 「私に(私の)…がある」くらいの意味
ahaṃ 1人称代名詞 私
kāmacchanda: 愛欲, 貪欲
iti, ti: ind. 〜と, かく, とて
pajānāti: 知る, 了知する
asanta: a. 不存の,
不実の, 不真の, 不善の, 具悪のここでは、a-santa、santa の反対の意味で「存在していない」ことを意味していると考えてよいでしょう。
natthi =na atthi
na: adv. なし
"natthi me …" で「私に(私の)…がない」くらいの意味
パーリ語釈: 増補改訂 パーリ語辞典 水野弘元 (春秋社)
(打ち消し線は、辞書には記載されているが、文章中の意味には当てはまらないと思われる意味を表しています。)
五蓋
五蓋は瞑想や修行の妨げとなる、欲貪・瞋恚・惛沈睡眠・掉挙悪作・疑という5種類の煩悩のことです。グナラタナ長老の解説は以下の通りです。
(ちなみに、「十種類の束縛」とは十結(dasa saṃyojanāni)の事です。)
五蓋については、漢語の仏教用語がそのまま使われることが多く、意味を把握しづらいので、各「蓋 (nīvaraṇa)」について、パーリ仏教辞典に記載されてる意味とグナラタナ長老による解説の一部をまとめておきます。
(『』は引用, 8マインドフル・ステップス p. 224-227)
欲貪 (よくとん)
kāma-cchanda
欲望を欲すること, 欲望追求, 欲しいもの(こと)を求めること, 欲貪, 欲望・志欲, 欲望への意欲
『欲、または貪りとは、何かを欲しがることです。瞑想をしているとき、この欲が、食欲や性欲、欲しいものについて考える妄想などとしてあらわれます。』
瞋恚 (しんに, しんい)
byāpāda, vyāpāda
怒り, 瞋, 瞋恚, 悪意, 害意
『怒りには、悪意や憎しみ、恨みなどが含まれます。これは、「嫌いなものを避けたい」という欲から生まれます。』
沈鬱と眠気, 惛沈睡眠 (こんじんすいめん, こんじんすいみん)
thīna-middha
怠惰や眠気, 鬱〔状〕と眠気, 惛沈・睡眠(五蓋の一)
『「惛沈」は心が沈んで鈍くなっている状態、「睡眠」は眠気や身体の気だるさです。』
浮つきと後悔, 掉挙悪作 (じょうこあくさ, じょうこおさ)
uddhacca-kukkucca
掉挙悪作 (心がうわつくことと後悔)
『後悔すると心はうわつきますから、掉挙と後悔はセットになっています。心がうわついたり、後悔したりしているときには、ものごとを明晰に考え、理解し、知ることはできないのです。』
疑い, 疑 (ぎ)
vicikicchā
疑惑, 疑い, 惑い, 疑念
『 疑とは、迷いのことで、正しい道や何を拠りどころにすればいいのかわからないことです。』
五蓋の法随観では、以上の五蓋(もろもろの法)において法を観つづけます。
パーリ仏教辞典: パーリ仏教辞典―仏のことば註‐パラマッタ・ジョーティカー 村上 真完/及川 真介 (春秋社)
法随観の結果
身随観・受随観・心随観と同様に、法随観を修習した結果について解説されています。内容はほぼ同じです。
受随観と同様に訳す場合は、最初の箇所が「内のもろもろの法において法を観つづけて住み、あるいは、外のもろもろの法において法を観つづけて住み、」となると思うのですが、なぜ上記の訳になっているのかは分かりません。
その7 まとめ
五蓋において法随観を修習する時は、私の内に蓋Aがあれば/なければ〈私の内に蓋Aがある/ない〉と知り、既に生じている蓋Aがどのように断たれるかを知り、断たれている蓋Aが将来どのようにして生じないかを知る、と五蓋の法において法を観つづけて住む。
法随観を修習して、内外のもろもろの法において法を観つづけて、もろもろの法において生起・滅尽の法を観つづける比丘には、〈法のみがある〉との念が現前し、かれは依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがない。
パーリ文: tipitaka.org
参考訳: パーリ仏典 中部 根本五十経篇I 片山一良 (大蔵出版)
つづく
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