誰であれ四念処を修習するならば 中部#10 念処経 読了 その12 (完)
中部#10 念処経 読了記事のつづき(その12)で、最後の記事となります。
四念処を構成する身随観・受随観・心随観・法随観について、これまでの読了記事へのリンクを以下にまとめておきます。
身随観
受随観
心随観
法随観
四念処の果報
四念処を修習すれば、誰であれ、次のような果報が期待されると説かれています。
(p. 186 「完全智」の箇所に『aññā. あるいは「阿羅漢果」。《最上の道の慧 (agga-magga-paññā)》』との脚注があります。)
対応するパーリ文は以下の通りです。
パーリ文: tipitaka.org
yo 関係代名詞
bhikkhave 比丘たちよ
koci: m. 誰か
koci [ind.] some one; whoever. (Concise Pali-English Dictionary)
ime これらの…を, これらを
cattāro satipaṭṭhānā 四念処
evaṃ adv. かく, かくの如く
bhāveyya 3. sg. opt. 修習するならば
bhāveti: [bhavati の caus.] あらしめる, 修習する, 修する
satta vassāni 七年間
satta: num. 七
vassa: m. n.
雨, 雨期, 安居;年;活気, 精力, 男の精
tassa [ta の dat. gen.] 彼に, 彼の
dvinnaṃ phalānaṃ 二つの果報のうち
dve: num. 二. =dvi
phala: n. 果, 果実, 結果
aññataraṃ phalaṃ いずれかの果報が
aññatara: a. [añña の比較級] 随一, 二者の一, ある
pāṭikaṅkha: a. [paṭikaṅkhati の grd.] 待望の, 期待せられるべき
diṭṭhe-va dhamme: 現法において, 現世で
diṭṭha: a. [dissati の pp.] 見られた, 見, 所見
aññā: f. 了知, 完全智, 開悟, 已知
sati upādisese 執着の残りがあるとき
sati: [sant の sg. loc] ありつつあるにおいて, 存在する時
upādisesa: a. [upādi-sesa] 余依の, 有余の
sesa: m. 残余, 余り
vā: adv. conj. または, 或は
anāgāmitā: f. [an-āgāmi-tā] 不還性, 不還位, 不還果
パーリ語釈: 増補改訂 パーリ語辞典 水野弘元 (春秋社)
(打ち消し線は、辞書には記載されているが、文章中の意味には当てはまらないと思われる意味を表しています。)
七年間でなくてもよい
四念処の修習期間は七年間でなくてもよいと説かれます。
七年間でなくてもよいのです。誰であれ、四念処をこのように六年間、五年間、四年間、三年間、二年間、一年間修習するならば、現世における完全智と不還果のいずれかの果報が期待されます。一年間でなくても…七ヶ月間修習するならば、…。七ヶ月でなくても…六ヶ月間、五ヶ月間、四ヶ月間、三ヶ月間、二ヶ月間、半月間修習するならば、…。半月間でなくてもよいのです。誰であれ、四念処をこのように七日間修習するならば、現世における完全智と不還果のいずれかの果報が期待されます。
最後に、本経の初めと同様に「この道は、もろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目の当たりに見るための一道です。すなわち、それは四念処です。」と、結ばれます。
スマナサーラ長老の解説も添えておきます。
その12 まとめ
四念処を七年間〜七日間修習すれば、現世における完全智と不還果のいずれかの果報が期待される。
四念処は涅槃を目の当たりに見るための一道である。
中部#10 念処経 読了記事おわり
参考訳: パーリ仏典 中部 根本五十経篇I 片山一良 (大蔵出版)