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この身を不浄と観察する 中部#10 念処経 読了 その3 (身随観 厭逆・要素観察)
中部#10 念処経 読了記事のつづき(その3)です。
身随観 目次
出息・入息 (ānāpāna, アーナーパーナ)出る息・入る息を観察する
威儀 (iriyāpatha)行住坐臥を観察する
正知 (sampajāna)正知をもってあらゆる行動を行う
厭逆観察 (paṭikūla-manasikāra)
身体を構成する三十二の部分を観察する
要素観察 (dhātu-manasikāra)
身体を構成する四大要素(地水火風)を観察する
九墓地 (nava-sivathikā)
墓地に捨てられた死体について九つの状態を観察する
身随観 厭逆観察
(身随観を修習する)比丘は、三十二の部分で構成されるこの身を、種々の不浄(asuci)に満ちたものとして観察すると説かれています。
つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、この身を、足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とする、種々の不浄に満ちたものとして観察します。すなわち〈この身には、髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃物・大便(・脳髄)、胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪、涙・膏・唾・鼻液・関節液・小便がある〉と。
第10 念処経
p.168
(パーリ文には脳髄が含まれず三十一部分でした。脳髄は骨髄に含まれており、諸註釈では「大便」の後に「脳髄」を加えて三十二と数えるようです。【パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む 片山一良 p.78】)
また、眼のある人(cakkhumant)が、種々の穀物で満たされた袋を開けて、これはサーリ籾米である、ヴィーヒ籾米である、、、とそのように観察する、との例えが語られます。
cakkhumant 眼ある, 具眼者
cakkhu n. 眼, 目
-mant 接尾辞 「〜を持っている」という所有の意味を表す。
【接尾辞 -vantu, -mantu パーリ語文法 ショバ・ラニ・ダシュ p. 208】
身随観 要素観察
(身随観を修習する)比丘は、この身をあるがままに、四大要素(地水火風)から観察すると説かれています。
つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、この身をあるがままに、置かれたままに、要素から観察します。〈この身には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある〉と。
要素: dhātu
dhātu f. 1. 界, 要素, 字界, 語根, 道理
2. 舎利, 遺骨
また、屠牛者かその弟子が雌牛を殺し、四大路で切り裂いて坐っているように、そのように観察する、との例えが語られます。
(肉屋が肉を細かく切り分けるように観察するということでしょうか。時代背景も異なるためか、仏典には現代では理解しづらい例えもあるように思います。)
その3 まとめ
厭逆観察を修習する時は、三十二の部分で構成されるこの身を、種々の不浄に満ちたものとして観察する。
要素観察を修習する時は、この身をあるがままに、四大要素(地水火風)から観察する。
まだ、身随観が終わりませんね、、、
つづく