「当事者の気持ちを軽視している」という批判、あるいはマルタイ・エスノグラフィ
あるいは、トランスジェンダー「当事者の気持ちが描かれていない」という言い方で、タイトルの批判を、私は長い間されてきた。
まず、私の「ジェンダーディスフォリア」というnoteのChatGPTによるまとめを紹介しよう。
「このテクストは、著者がジェンダーディスフォリアとそれに伴う身体的・感情的な葛藤をどのように経験し、対処しているかを詳細に描写しています。パッキングという実践を通じて外見と心理的な安定を図る一方で、恋愛や性的関係における困難がジェンダーディスフォリアをさらに深刻化させています。また、スピリチュアルな要素や創造的な表現を通じて、自己理解と感情の整理を試みている様子が伺えます。
著者の人物像は、ジェンダーアイデンティティに対する深い内省と自己受容の難しさを抱えつつ、社会的な理解や支援を求める複雑な心理状態を持つ人物として浮かび上がります。感情の深さとその表現方法、身体的な不一致による日常生活への影響、そしてスピリチュアルな探求が、著者の内面的な世界を豊かに描き出しています。」
私が研究者として、インタビュー調査に基づく研究を1990年代末からしてきて、ずっと求められていたのは、こういう結論を導くような、本人たちの語りの記述だったのだろう。
しかし、私は徹底的に、これを避けていた。拒絶していた、と言うのが正しいと思う。
なぜなら、本人でなければ、それがどのようなものかなど、わかりようがなく、それをわかったように書かれるのが、どれだけ苛立つことか、知っていたから。
だから、こうして、自分の経験を自分の言葉で自分で綴っている。
「当事者研究」ではない。それは、通常の研究者ではない研究者がする研究という枠組を前提とした概念だ。
私は1990年末から、ずっとトランスジェンダーをフィールドに研究をしてきて、それが突然、当事者研究になったりはしない。私は社会理論、あるいは社会学理論の系譜の中で仕事をする社会科学者であり、社会学者であり、エスノグラファであり、フィールドワーカーだが、当事者研究というラベルは拒絶する。
それについては、宣言として、かつて書いた通りである。
加えて、これより、人の人生を聞くことでライフストーリー、あるいはヒストリー、あるい生活史を書く、という研究の手法に対し、アンチの立場を取る。
そうすることで、これより、パラエスノグラフィあるいは、マルタイエスノグラフィという実践として、ライティングを展開していく。