ディスフォリア(フィールドノーツ2025Feb11)

ジェンダーディスフォリアだと、人に言われて、なるほどこういうやつかと思ったわけなんだけれど、日本語で説明されているものでも、本人が言っていることを引用していても、自分の感じていることとは、何かがズレている。

何でかというと、あるのもを要らない、と思うのは思いやすいけれど、ないものをあるべき、と思うのは、どう可能なのか分からなかったから、かな。

個人差があると思うけれど、パッキングし始めるまで、私には、ほとんど分からなかった。

始めたのは、存在感がないと、不自然だからだ。服を着た状態の見た目として。

それは、見た目の問題なので、分かりやすい。自分でも驚くのは、ここから。

自分で触ると、あったわ、あって本当に良かった、というような、何だか、何とも言えない、かなり激しい心の動きがある。

しかしさ、結構生々しい作り物であるので、そのこと自体に、激しく傷つく。

なぜ傷つくかというと、ないので、補わなくてはいけない、ことに傷つくんだと思う。

きっと、この二つの強い感情というか感覚には、年単位で慣れられないだろうと思う。そうしているうちに、オペの順番が回ってきて欲しいなぁと思う。

つまり、早く済ませてしまいたい。済んでからも、きっと慣れるのに暫くかかるか、こんなはずじゃないのにと、一生思うのか。

一方らジェンダーアイデンティティは、性的な関係性に左右される、というのが、最新の心理学精神医学的知見だ。

私は今回、自分のありたい身体を見極めるために、性的な関係性を一切絶って、持ちそうな相手との接触すら絶って、3ヶ月経った。特に、身体を見られる、そして自分の身体に魅せられるためのパフォーマンスもしばらく封印して、どうなったかというと、フェミニンな身体を、そのまま使うのが前提のパフォーマンスは、もうできないと思うようになった。

普段の生活では、トイレとシャワーの時以外、つまりバスルームでだけ、自分の身体と向き合わざるを得ないが、あまり見たくないと、そそくさと何もかもを済ませている。バスルームにしか鏡はないし、普段は、もともと、ほとんど見ないで過ごしていた鏡も、まったくというほど見ない。

パフォーマンスのために鏡を見て練習する時と、録画したものは、動きを頭に入れるために、アホほど熱中したり、繰り返したりして見るけれど、そのため以外には、見ない。

自分でも混乱するから。だと思う。

パフォーマンスは、オーディエンスを混乱させるのも、目的の一つだから、それなりに自分でも大丈夫なことに、しておけるようだ。

あなたのジェンダーアイデンティティは何ですか?とカウンセリングで聞かれて、即頭が吹っ飛んだ、つまひフラッシュバックして、一週間ほど倒れて乖離してしまった2021年春から、3年半経ったか。

トランジションには、本当に時間がかかる。落ち着くまで、あと、3倍はかかりそう。

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