誰にでも天から何かが降りてくる非線形的情報処理の瞬間がある(フィールドノーツ2025Feb03)

さっきの、トランスの友だちたちの経験の話に、Cが、特定の発達特性の人たちの話、というラベルを貼って処理したのだけれど。

その前の、カテゴリー論の組み替えの話として書いたように、線形的なものを規定に記述されてきた情報処理のモデルを組み替えるのに、線形と非線形という二分化を排するための、メモ書きであった。

もう少し、一般的な例を挙げようか。作文とか、卒論とか、小説とか程度の差はあれ、何かを書こうとしていて、なかなか書けそうになかったんだけれど、しかし、不意に書けてしまった話、というのは、している人、多いと思う。

この現象には、天から何かが降ってくる式の説明がなされていたんだけれど、もちろんその言い方は比喩だけれども、説明不能な事態をスピリチュアルなことだと位置付けることで処理する、ある種の方法だったと思う。

書き方が固くてごめんなさいね。

しかしさ、これって、非線形に何かが分かること、可能になることの、有り様なんだと思うよ。ちょっと身近にならない?

何かを書く締め切りの前に、部屋を掃除してしまう人って居るじゃない? あれは、何かの儀式的なものとして語られていること多いと思うけど、非線形的情報処理で、脳が動いて身を結ぶのに、手持ち無沙汰っていうか、じっとしてても速度早まらないし、掃除もできるし締切も終わるし、お得な経験の記述としてなされる、非線形的情報処理経験の話、なのでは?

今、脳の情報処理が、アカデミックなバージョンになってるので、書き方が正確さの方を優先していて、読みにくくてごめんなさい。

あと、何か良い例は無いかしらね。

私はフィールドノーツを書いても、それを見直して、それ自体を分析して、論文を書くことは不能、なのだけれど、非線形的情報処理で、論文書いてるから、だと思う。

なので、タイトルを最初に決めることで、目的地と運命を同時に決定して、それから情報処理をゴー。ピースがハマれば、つまり情報処理ができれば、後はトップダウンで書く。また書きながら、細かいところも、ピースの残りをはめていく。

もちろん、持ち味や、得意不得意はあると思う。でも、何ができて何ができないか、それ自体を、そのリアリティを、前提を持たないで観察する、その見方こそ、エスノグラファの基本。

一部の人しか、発達特性は強く無いので、他の人と違うし、困っている、という精神医学の見識が、あるいは、そういう眼差しが、見方が、線形的なプロセスのみを前提にした、これまでの研究の全体像を作ってしまっていた。テクノロジーにより、それは見直され始めたんだけれど、その固定的な前提の作り方、見方をやめたら、テクノロジーの待つ必要もなかった。

つまり、かけているメガネを外すべきなのは、ほとんど全ての人。もちろん、私も。

誰でも、やろうと思えば出来る。

それは、プリビリッジドだから言えるんだ、と言いたくなった人は、アタシのnote、色々読んでみてね。違うんで。

と、書いている全ては、オープンライティングのフィールドノーツで、自分を読者対象にして書いてます。

それでさ、その情報処理の記述の組み替えは、カテゴリー研究の枠組みの組み替えになるわけなのよ。それも、今日のノートとして書いてきましたので、もしよければ。

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