見出し画像

端っこと端っこが交わる世界で

本当に「最近分断が進んでいる」のか

いろんな出来事が起こって、いろんな議論が交わされて、それがどんどん速く、より多くの人にシェアされるようになって…結果「最近分断がすすんでる」とか言うんですけど、本当にそうですかね?そんなことないと思うんですよね。

分断がすすんでるわけではないと思うんですが、それは「分断してない」ってことではもちろんなくて。

元からそうだったでしょ? 単純にそれが見えるようになっただけでしょう?と。

そもそも「分断しない方がいい」「必ず理解しあえる」なんて幻想でしかないわけで。真ん中を0とした時に、右5の人と左5の人(これはいわゆる右翼左翼という意味ではないです。一つのテーマに対する態度の例え)がやり取りして、分断しないわけがないんです。わかりあえるわけがない。

今僕らが目にしている「結論が出ない議論」の多くがこれです。本来、これまで交じり合ってこなかった人同士が交わしている議論を僕らはたくさん目にし耳にし、熱くなったり呆れたりしている。ムダとしか言いようのないやり取りを見せつけられている。僕はよく「ムダこそが大切だ」みたいなことを言うのですが、このムダは嫌ですね。というかムダという言葉とはそぐわないのかもしれない。こんなにも人の気持ちを貶め、雰囲気を落とし、汚い言葉を生じさせるものはムダという言葉を遥かに超える何かであるはずなんですよね。

当事者ではない人の正義

そして、その多くが、その事象に関係のない人たちのコメントです。もちろん言論の自由が保障されている環境下で何を言ったって咎められるものではありません。何も言えないより、何でも言える方が圧倒的にいい。ですが、あまりにも「そのことがあなたにどういうダメージを与えたんですか?」と聞きたくなるようなことが多すぎる。「あなた何の関係もないですよね?」と言ってしまいたくなることが。

前述のとおり言論の自由が保障されていて、そしてツールがあるわけだから、一定の範囲内でなら何言ったっていいと思うんです。言いたい側は場所が居酒屋からSNSに変わっただけなので変わるはずがない。要は聞く側、読む側で。そういうのを見るのは精神衛生上よくないですから、無視すべきですし、目に触れないようにどんどんブロックするべきだと思うんですよね。居酒屋で隣の席でヤバい話してるグループがいたら、さっさとその店出るか全く聞かないようにするか、そういうことするじゃないですか。それでいい。

「意見を封殺するのか!?」とか言う人が出てくるかもしれませんが、別にその人の口を塞ぐわけじゃない。自由に発言すればいい。ただ(私は)見ないし聞かないよということ。その方がお互いにとっていい。圧倒的に意見が異なる人の意見を見聞きしても、それは相互理解や会話に繋がるというものにはなりえず、ただの反発と不快でしかないわけですから。

「絶対的な正しさ」という恐怖

どんどん価値観がアップデートされて、旧態依然な価値観は大きく否定される…そんな傾向が年々強まっているように感じられます。ただ、その価値観てあくまで「今の価値観」であって「絶対的な価値観」ではないし、と言うか、そもそもそんなもの存在しないですよね。

右5や左5の人というのは、(傾向としては)そういうものがあると信じている人たちで、それはなかなか譲れない。だって「絶対的な正義」だったら「あなたの言い分もわかるけど」なんて言えない。まあそりゃそうです。そういう生き方を否定はしませんが、そういう人が真逆の人の意見を見たり聞いたりすることを僕はおすすめしません。本来的には多様性大事だし、真逆の人の意見を聞くことは概ね正しいとも思いますが、それが許容するのは左3と右3くらいの間までのことです。左5と右5でそれをやるのはどうしたって無理があるし、この20年くらいでわかったことってそれなんじゃないの?と思うんです。端っこと端っこで意見を交わしても、それで何かが生まれることはない。ましてや世界が良くなるなんてことない。むしろ悲劇しか生まない。

ネット以前とネット以降

ネット以前とはっきり言えるほど区切れはしませんが、文壇や雑誌で論戦していたころはそれぞれのジャンルやクラスタで固まっていたし、なによりもこんなにスピードが速くなかった。月刊誌で書いたことに反論がくるのは早くて翌月です。それに対して数日、数週間かけて考えた内容を反論する。脊髄反射で反論するのとは冷静さがどうしたって異なります。もちろんそんな時代に戻るべきと言っているのではなく、そういう状況であることを理解して対処していかないといけないよねということです。

人間の脳みそなんてそんなに優秀じゃないし、感情はいつだって理性を飛び越えます。一瞬の怒りで書いた文章をすぐさま公開できてしまう世界で、左5と右5が論戦を交わせてしまうこの状況は、正直悲劇しか生まないと思うし、頭のいい人ほど黙ってしまうと思うんです(もちろんお金のためには発信すると思いますけど)。これが加速すると、目に見える情報はどんどん下劣なものになっていって、本質的な話はクローズドな場でしかなされないものになっていく。すでにそうかもしれないし、ひょっとしたら昔からそうだったのかもしれません。

対処法としての「褒め」

正直、そんなに対処法はないと思っていて。でも、そんな中で唯一思いつくのは「いいものはちゃんと褒めよう」ということです。どうしたってネガティブなものの方が筆致進みますし、文量も書けてしまう。でも、悪く思っている人の方が少数派かもしれなくて。大多数はそれをポジティブに思っているのかもしれない。

1つの公園がなくなるという時に「そこで遊ぶこどもたちの声がうるさい」という少ない意見だけがピックアップされてしまう。多くの人はその公園をステキだと思っていたとしても。かつて松下幸之助が言った「知られなければないのと一緒」というのは広告やPR界隈での金言とされていますが、あらゆることでそうなのかもしれません。

ステキなものを「ステキだね」と。感謝している対象への「ありがとう」を。素晴らしい作品への賛辞を、きちんと出していくこと。僕に思いつくのはそれくらいなので、出来る限り好きなものを好きだと言い続けていこうと思っています。もしよかったら、これを読んだあなたも一緒にいかがですか?

いいなと思ったら応援しよう!