読書記録「空芯手帳」 |「ねえ、カップ」的な社会から身を守るための嘘
「空芯手帳」の主人公は、ラップの芯やお菓子のパッケージなどに使われる「紙管」(私はこの言葉をはじめて知った)を製造する会社に勤務する女性、柴田さんだ。ある出来事をきっかけに「妊娠した」と嘘をついた柴田さんの妊婦生活を、妊娠週を章に見立てストーリーが進む。
物語は柴田さんが会社でブチ切れるところから始まる。同僚たちは柴田さん以外、全て男性だ。その環境では、ごく自然に「名前のない仕事」は柴田さんの仕事だと認識される。来客のお茶出し、いただきものの菓子を一人ずつ配ること、再利用の紙類の置き場を整理すること、数々の名前のつかない仕事たち。ある日、来客が帰った後にそのままになっていたコーヒーカップの片づけをめぐって、柴田さんはキレるのだ。
デスクで仕事中の柴田さんの後ろに立った男性課長は、「ねえ、カップ」と柴田さんに言う。もちろん柴田さんはカップではない。文法的には「Hey Siri」と同じはずなのだが、この文脈では「柴田さんカップが出しっぱなしだから片付けて」と読み込まれる。「ねえ、カップ」は「おーい、お茶」と同じだ。なんの疑いもなく女性がして当然と思われている仕事がいかにこの世には多いか。2024年現在も流通し居座っていることか。辟易する。
テーブルの上に残されたままになっている来客のコーヒーカップには、たばこの吸い殻が差し込まれている。キレた柴田さんは、「妊娠していて、たばこのにおいが耐えられなくて片付けは無理だ」と課長に言う。(柴田さんは結婚していないし、妊娠もしていない)
突然、「妊婦」になった柴田さんは、定時退社し、名前の無い仕事からも解放されることになる。夕方5時に退社し電車に乗った柴田さんは、毎日残業するのが当たり前だった生活からは考えられない夕方の景色に驚く。当たり前のように、この時間に帰宅している人たちが大勢いたのかと。
そこからは、「妊娠した」という嘘を取り繕うために、柴田さんの妊婦生活(※妊娠しているフリをする生活)が始まる。「妊娠」が当事者と周囲の人間をどう振る舞わせ、そしてどう振り回すのかを、男性の同僚である東中野さん(彼は妊娠そのものに興味津々の様子)、未婚の柴田さんの妊娠を好奇心で見守る同僚たち、マタニティビクス仲間(本物の妊婦)たちとの交流などを通して、細やかに描いていく。
柴田さんは、妊婦情報を収集するためにインストールした母子手帳アプリに表示される情報を参考におなかに詰め物をしたりする。妊娠が判明してから出産予定日が近づいていくまでの気持ちや体調の変化がよくわかる。週ごとに赤ちゃんが体の中で育っていく過程は興味深い。が、「よくわかる」「興味深い」と言っても、柴田さんの嘘に共感してしまうところも面白さだと思う。
物語の終盤に近付くと、なんと、柴田さんは産婦人科に通い、妊娠36週まで未受診であったことを叱られたり、エコーで胎児の画像を見たりするシーンが登場する。読者としてはだんだん真実が分からなくなっていくのだが、最後まで柴田さんの妊娠の真相は分からない。そのあたりは面食らうのだが、そもそもこの話は「嘘」もテーマのひとつなのだろう。
虚実のどちらに傾いているかによって、物事の見え方、感じ方、結論、様々な事象が揺れ動くということも見せてくれているのかもしれない。「嘘はいつかばれるもの」という嘘の宿命みたいなものを見事に裏切って、終盤から真実が急にふわふわし始めるのである。
あるいは、人生の分岐点で別の選択をしていたらどうなっていたのだろう、というパラレルワールド的な見方をしても面白いのかもしれない。柴田さんは物語に描かれていない様々な選択肢をもっていて、別の選択の結果が描かれているのかもしれないと考えてみるのだ。
人生の分岐点で、選択が一つしかできない時、結果も一つだが、もしあの時別の選択をしていたら、と想像することは出来る。誰しも頭の中では、過去の瞬間を回想し、後悔したり、甘い夢を見たりしているように。
「嘘」について柴田さんが、育児に苦しむマタニティビクス仲間の細野さんにこう言うシーンがある。
周囲の人間が勝手に判断して決めつけようのないもの、それが柴田さんとっての「嘘」なのではないか。彼女だけの真実になりうるものが、彼女が胸に秘める「嘘」であり、よりどころになっているのではないか。女性たちを慣習に縛り付けようとする「ねえ、カップ」的な社会から、自分を守るための砦なのかもしれない。その「嘘」の切実さは胸に迫る。
「空芯手帳」は、空洞でもあるし、中心に何かを詰め込むこともできる「紙管」と、母子手帳の「手帳」が複合されたものだ(と思う)。柴田さんの社会人としての人生と、女性最大のライフイベントである妊娠を、彼女がどう乗り越え(乗り越えないのか)、どう受け入れていくのか(受け入れないのか)を巧みに包み込んだタイトルだ。
「嘘」の結末を期待して読み続けると戸惑ってしまうかもしれないが、開かれたストーリーが想像する余地を与えてくれたおかげで、思い切り空想の世界で遊び、楽しんで読み終えた。
ところで、主人公を「柴田さん」と「さん付け」してしまうのは、なぜだろうか。柴田さんを取り巻く環境に強く共感したからではないか。柴田さんを自分の同僚であり友人のように感じるから「さん」を付けたくなるのだ。友人のような気持ちで柴田さんの嘘を見守り、嘘の行きつく先に同伴し、ぬくもりと痛みをわけてもらえるような作品だった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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