【Episode 2】神宿る場所
神宿る場所
栄駅の裏側にある石の置物が、今日も僕のことを見つめているような気がしていた。あれはどうやら彫刻作品で、なんでも「竜神」という名前らしい。たしかに竜に見えないこともないが、僕には神が宿っているようには見えなかった。
高校へ行くためには「竜神」の前を通らなければならない。茹だるように暑い8月の朝を自転車で駆け抜ける。朝といえども気温は高く、自転車を前へ進めるたびにじんわりと体に汗が滲んでくる。こんなに暑い夏は嫌いだ。
家の前に置いている植木鉢に水をあげている人が僕に気づき、ハルくんおはよう、なんて声をかけてくる。僕は早口にそれに答え、自転車のペダルをさらに踏みこむ。スピードを上げた自転車がからからと音を立てた。腕時計をちらりと見ると、短針が8に追いつきそうだった。もっとスピードを上げないと、遅刻してしまう。そう思い、ペダルを踏む――が、妙に重い。それに、さっきからぐらぐらと車体が揺れている。
何かがおかしい。
時間はないが仕方ない。安全を優先し、僕はペダルを踏みこむ足を止めた。ブレーキをかけながらぴょんっと飛び降りて、自転車のタイヤも止める。異変の理由はすぐにわかった。
タイヤに釘のようなものが深く刺さっていた。
ひとまず学校と親に連絡した。高校まで歩くことも考えたが、そんなことをすれば着くころにはきっと僕が干からびてしまう。担任に、遅刻します、と伝えたので気兼ねなく時間を潰せる。親が迎えに来るのを待っていた。
ふと、視線を感じた気がして顔を上げる。そこには誰もいなかった。ただ、石でできた竜が僕のそばでじっとまちに溶け込んでいた。
どうしてこんな場所に、彫刻があるんだろう。
こんな機会がないと調べることすらないだろう、と感じた。思い立ったが吉日、検索をかけるために素早く文字を打ち込む。
『栄駅 彫刻』
検索ボタンをタップして一秒ほどで弾かれたように検索結果が表示される。そこに表示されたのは、愛知県の駅の情報がほとんどだった。
「そっちじゃねえよ……」
思わず独り言が漏れる。仕方ないので検索ワードを変えてみる。
『水島臨海鉄道 彫刻』
すると今度はきちんと僕の知りたい栄駅の情報も出てきた。平成4年9月、8人の彫刻家、水と海と緑がテーマ。キーワードになるのはこれくらいだろうか。紹介されている作品の中には、もちろん今僕の目の前にある「竜神」もあった。写真で見るよりもどっしりとしていて、神っぽさを感じるのは気のせいだろうか。それとも、陽の当たり具合でそう見えるだけで、実際はやっぱりただの石なのか――おもむろに立ち上がり、僕の目の前にある彫刻に手を伸ばした時だった。
「遥斗、何してるんだ。学校行くんだろう」
聞き慣れた祖父の声に振り返る。出しかけた手をすっと引く。遠くに行っていたような意識が僕のもとへ帰ってきた。
後ろに自転車を積んだ車に揺られながら、僕の頭の中は石でできた竜のことでいっぱいになっていた。ただの石だ、と思っていたはずだった。あのとき、なぜ手を伸ばしていたのか自分でも分からなかった。祖父に声をかけられなかったら僕はどうしていたんだろう。
あの石に触れたらきっと僕は僕ではいられなかった。
理由はわからないが、そう思った。
あれから僕は、「竜神」を視界に入れるのを避けていた。
避けていた、というよりは、無意識に目に入れないようにしていた、というのが正しい。学校へ行くとき、遊びに行った帰り道、ことあるごとに、逃げるように目を伏せていた。再び目を合わせてしまえば取り憑かれてしまう。
得体の知れない「なにか」に。
そんな僕が再びあの作品の前に立つことになったのは、そこが待ち合わせ場所になってしまったからだ。倉敷駅集合にしないか、と僕が言っても全く聞かない、わがままな幼馴染のせいだ。
『明日の11時、栄駅にあるあの石の置物の前で集合。その後、臨鉄で倉敷駅まで行きます。秋月くんへの誕生日プレゼントを買いに行きます。ついてきてね』
なぜ「竜神」の前を待ち合わせ場所にしたのかわからない。女子高生って、いくら買い物についてきてもらうだけでも、もう少し明るい場所を選ぶんじゃないのか。例えば、倉敷駅の時計台の前、とか。
幼馴染の男女の待ち合わせ場所に「竜神」の前は、さすがに暗い。ハチ公のように待ち合わせの定番スポットってわけでもないのに。
そんな言葉は、飲み込んで知らないふりをした。春花の買い物なら秋月本人がついて行けばいい。どうしてわざわざ僕を呼びつけたのだろうか。布団に潜り込みながらそんなことを考えていた。
そのまま、ゆっくりと眠りについた。
なんだかスマホがうるさい。
これはアラームの音――ではない。着信があることを告げる音がけたたましく鳴り続ける。思わず布団を蹴って、スマホを手に取る。
時計は、午前11時30分を示していた。
鳴りやまない着信は全て春花からだった。
何度目かわからない電話に出る。
「もしもし……」
『もしもしじゃないよ!私もう30分待ってるんだよ』
「今起きた。ごめん、準備してすぐ行く」
その言葉には何も返事がなく、電話が切れたことをわからせようとする音が耳を通り抜けた。とりあえず、大急ぎで支度を済ませ家を飛び出した。
待ち合わせ場所として指定された「竜神」の前には、春花が立っていた。スマホを見ながら、心なしか悲しそうな顔をしていた。
「遅くなった。ごめん」
僕の声に、彼女が顔を上げる。そこで気づいたが、今にも泣いてしまいそうな顔をしていた。僕がそうさせたのか、そうじゃないのか。それは僕にはわかりかねるのだが。
次に彼女の口から飛び出してきたのは、僕の予想から少しだけ離れた言葉だった。
「遅いとかそういう話じゃないんだよ。私は秋月くんのために誕生日プレゼント買いに行きたいなって思ったの、決してハルのためじゃない」
僕のためじゃないことくらい最初からわかっていた。
「私がどうしてハルを頼ろうと思ったかなんて知らないくせに。よくそんなにのうのうと『遅れた』なんて言ってここに来られるの」
僕を頼ってきた理由なんて知るものか。
「こんなことなら、最初から秋月くん本人を誘っておけばよかった」
その言葉が、許せなかった。
「昨日の夜遅くに突然メッセージ送ってきたのは春花だろ。待ち合わせ場所も集合時間も勝手に決めたのも春花だった。そこに僕の意思は関係なかったのに、遅れてきたらこれか。最初から秋月と行けばよかったんじゃねえの。悪かったな、僕がこんなやつで」
息継ぎもせず、そう言い切ってから春花の顔を見た。
しまった、と思ってももう遅い。
さっきまで何かを堪えるように潤ませていたその目から、ひとつ、ふたつ、と涙が流れ落ちるのを見てしまった。その涙を拭うこともなく、ただ、見開かれた双眸が僕だけをとらえていた。その視線に射抜かれてしまい、何も言葉を発せない。全身の筋肉が固まってしまったように、動くこともできない。ただ、息をするだけだった。
「もういい。私一人で行くから」
春花はそう言って、泣き顔のまま僕に背を向けた。
ああ、やってしまった。僕が春花を責め立てるようなことをすれば彼女が泣いてしまうのはわかっていた。それをわかっていながら僕は彼女を責め立てたのだ。自分の感情に任せて。
それもこれも、春花が僕を一度も見てくれていないことへの苛立ちとか、秋月への嫉妬とか、そういう子供じみた感情が生み出す。冷静になれない、僕自身の感情の暴走のせいなのだと思う。そうでもなければ、春花にあんなものの言い方はしない。
俯いた拍子に、「出かける準備をした」自分の姿が目に入る。
急いで準備を済ませたけれど、急いだとは思えないほど髪形も服装も整っていた。
春花が誘ってくれたから。春花が、僕を選んでくれたから。
でも僕は自分でそれをめちゃくちゃにした。この季節にしては妙に冷たい風が僕の体を刺した。
ため息をつく気にもなれなかった。
このあとどうしようか、とぼんやりと考えた。昼ごはんはいらない、と言って家を飛び出してきたのだ。急いでいたから、朝ご飯も食べていない。こんな浮かない気分でも空腹はきちんと感じる。でも、何も食べる気分になれない。だからと言って家に帰れば何があったのか詮索されるのは確かだ。それも避けたかった。
意味もなく、ホームに向かって歩き出した。
――本当に後悔しないのか。
誰かの声が聞こえた気がして、思わず振り返る。何もいない。
――明日、君は後悔するだろうな。泣くほどに。
また同じ声が聞こえた。どうしてだ。誰もいないのに。幻聴なら早く消えてくれ。
――春花ちゃんは、本当は
その「誰か」の声を掻き消すように、電車がやってきた。
声が聞こえなかったふりをして、僕は電車へ乗り込んだ。
気づけば家のベッドの上で朝を迎えていた。
結局、何をしていたのかほとんど記憶がない。ただ、財布の中からいくらなくなったか計算すると、栄駅から倉敷市駅までの往復の運賃と同じ額を使っていたらしい。だから、行って帰ってきたのは確かだった。春花のことを追いかけたのかもしれなかった。
でも、彼女に追いつくことも、話すこともできなかったのだろう。
やはり気分は浮かないまま、スマホを手に取る。こんなときでも朝起きたら一番にスマホを見てしまう。現代っ子な自分に辟易した。
普段、あまり見ないアイコンからメッセージが届いていた。
秋月からのものだった。
『遥斗くん、昨日春花ちゃんとなにかあったの?』
そのメッセージに腹が立った。春花のやつ、秋月にそんな話までしてるのか……苛立つ一方で、いつの間に二人がそんなことを話せる仲になってたんだろう、と疑問に思う。まあ、こんな時代だから、直接話しているだけがコミュニケーションではないのだが。直接話さなくたって、仲良くなる方法なんていくらでもあるか。
一人で妙に納得して、秋月にメッセージを送ることにした。
「秋月に話すことはない。春花から話聞いてるんだろ」
そう返し、スマホを置こうとする。しかし、秋月からはすぐに返信が来た。
『いや、何も聞いてないんだよ』
『昨日の昼過ぎに、春花ちゃんから、最近の男子高校生は誕生日に何をもらったら嬉しいの?って質問のメッセージが入ってたから』
……え?
「え、ちょっと待ってくれ」
「秋月、お前、誕生日いつだっけ」
『俺の誕生日?なんで遥斗くんが忘れてるんだよ』
お前と同じ、9月1日だろ。
秋月からそう言われ、すべてを悟った。
春花がなぜ僕を連れて行こうとしたのか。どうして秋月の誕生日プレゼントを買う、なんて言ったのか。秋月と春花は特別仲良さそうな感じではなかったのに。それから、僕じゃないとだめだった理由も。
春花は僕を驚かせようとしていたのだ。
昨日、あんな物言いをしてしまったことを、ひどく、ひどく、後悔した。スマホの画面がじわじわと見えなくなっていく。どうしたらいいかわからなくなって、思わずスマホを布団に投げつける。
僕のバカ。どうして何もわからなかった。自分の思い込みだけで判断して、ちゃんと僕のことを考えてくれる幼馴染を泣かせて、それでいてまだ謝ってもいない。春花との会話は、昨日の11時30分で止まっていた。
今ならまだ間に合うのだろうか。
そんな、僕の甘すぎる考えを、許してほしかった。受け入れてほしかった。願わくは、春花に。僕の情けない部分を知るのは彼女だけでいい。
一度投げつけたスマホを手に取り、急いで電話をかける。
『おはよう』
昨日あんなに怒らせてしまったのに、呼び出し音が一度鳴り終わる前に繋がった。
「春花、昨日はごめん。僕、何も考えてなかった。自分のことしか考えてなかった。許してくれとか言えないけど、その……えっと……」
『今日は待ち合わせ時間守ってよ』
「え?」
『13時。昨日と同じ場所に集合。』
「わかった」
もう大丈夫。昨日と同じミスはしない。
時間に余裕を持って、待ち合わせ場所へ向かう。
12時45分。「竜神」の前で、今日はきちんと立って待っている。
――もう大丈夫そうだな。
そんな声がどこかから聞こえた。昨日も聞こえたこの声の主が、分かった気がした。
そこにあるのは、ただの置物ではない。単なる彫刻作品でもない。
そこにいるのは、まちを、僕らを見つめる、
竜に化けた、神だった。
――悠久の時を経て地上に現れた石に龍が宿っていた。
写真について
写真は、水島臨海鉄道栄駅のすぐそばにある「竜神」という彫刻作品の一部分です。制作年は1994年、作者は五十嵐晴夫さん。
詳しくは、倉敷市のホームページを見てください。
作品について
物語はほぼフィクションです。待ち合わせに遅刻して大喧嘩したことも、彫刻作品に話しかけられたこともありません。でも、自転車のタイヤがパンクして高校に遅刻しかけたことはあります。
神がどこにいるか?という問いには、わたしはなかなか答えられません。神社かな、という月並みな答えを出して話が終わっちゃいます。今回作品のベースにして「竜神」は、どの方向から見てもどことなく龍っぽさを感じさせる不思議な作品でした。
高梁川志塾とどう関係しているのか、という話。
自分の目の前にあるものをそのまま受け取らず、いったん考えてみる。志塾への参加をきっかけに、そんなことをするようになりました。感覚的に、いたって自然に。
わたしにとっての考え方の転換点は意外と近くに転がっていました。物語の主人公である遥斗に、それを投影できていればいいな、と思います。