うちの母は、お節介なおばちゃんである。お節介というと、なんとも面倒な存在や、うっとおしい人をイメージしてしまう。母も、ある人からすると、たぶん、そうなんだろう。だけど、そのお節介によって信頼をはぐくみ、母が中心となったお寺の婦人方のコミュニティができている。
体調が悪いときくと何となしに家にご飯を持っていったり、頼まれてもいないのに仲違いしている間に入ってみたり、依頼もされていないのに披露宴で余興をするって言ってみたり。
自分の母親だから色眼鏡で持ち上げてみてしまうし、周囲も気を使って良いように言ってくれるんだろうけれど、なんやかんやで慕われてる。
なんかその姿をみていて、宗教者もお節介だなと思う。そんなに不安にも思っていないのに、「あんたもいずれ死ぬんやで」「死ぬ直前に死後のこと不安になったら取り返しつかないよ、いまのうちに聞いとき」と言ってみたり、「ほんとうにその人生で幸せなのか」と問うてみたり。
そういう問いによって商売繁盛なんだから、そっちが目的だろうって批判されることもあるけど、これまでの経験や先輩から教えてもらうなかで、本当にそういう悩みや苦しみを抱えながら、この世のいのちを終えていった人たちをみてきた。だからこそ、ついつい言ってしまう。
常日頃から存在論的な問いをもっている人なんて、全体からいえば、ごくわずかであろう。だけど、気にもしていない人にそうやって、生き死にへの、そもそも的な問いをあたえる。うざい人にはうざい。だけど、ときどき、そういえばそんなこと考えてたと反応する人もいる。
そう、お坊さんはお節介なんだ。母の様子をみながら、僕も心地よいお節介ができる人になりたいなとを思う。
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