〈エッセイ〉ハンチバックから文学を考えた【ともや】
7月19日(水)は、169回芥川賞・直木賞の発表の日だった。私は「芥川賞受賞作を予想する」という遊びをやっていて、候補作5作を読んで、受賞作を予想していた。私の推し&予想は、乗代雄介さんの『それは誠』! 乗代さんの集大成と言っても良い作品で、各所にいろんな技巧があって、これだ! と思ったのだ。
その日は夕方にzoomで勉強会があったのだけれど、受賞作を早く知りたかったので、zoomを受けるiPadの隣にiPhoneをこっそりと置いて、受賞発表会場のYouTubeを流していた(選考会は16時から行われる)。18時前くらい。小さい方の画面の中で、いよいよと係員の人がホワイトボードに貼り付けた紙には、市川沙央さんの『ハンチバック』と大きく書かれていた。
推しの『それは誠』が受賞できなかったことに、少し落胆した。けれど、市川沙央さんの受賞会見を聞いたり、その反響を見て、やっぱり受賞作は『ハンチバック』なのかな、と思い直した。
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文学の正しい定義を知らないけれど、私の中では「声なき声を形にする」ものが文学だと思っている。
社会の中で見過ごされがちな感情や情動、社会構造の隙間、生きづらさ、問いかけ。
違和感はあったけれど、言葉になっていなかったこと。想像すら及んでいなかったこと。そういったものを物語を通して形にする。感情や経験を擬似体験させる。それが文学の力だと思う。
市川沙央さんの受賞会見は、記事になってツイートで拡散されていた。
『重度障害者の受賞は初でしょうが、どうして2023年にもなって初めてなのか。それをみんなに考えてもらいたい』が表題の記事。実際に市川さんが会見中に発した言葉だ。
しかし、そのツイートのツリーには、市川さんの発言の意図とは違うリプライが連なっていた。
市川さんの本を読んで、あの15分の記者会見を通して見た人なら、あの発言の意図をここまで歪めて汲み取ったりはしない。切り取られ方の悪例だろう。
たぶん市川さんが言いたかったのは、健常者がつくった社会の中で、障害者の【学ぶ手段】や【表現する技術】が圧倒的に少なく、整備が遅れてきたことだ。
ハンチバックの中でも紙の本の健常者優位主義について言及されているけれど、あれは健常者が学ぶことを想定して作られたもの。
目の見えない人はそもそも読めないし、ハンチバックの主人公 釈華のような重度障害者には、紙の本が重たい。障害を持つ人は、学べる手段が圧倒的に少なく、表舞台に行き着くまでの道が細くなっている。そもそものスタートラインが、健常者よりも圧倒的に後退している。
人権の尊重や平等を掲げながら、障害者には不平等な【学ぶ権利】の構築が、2023年の現在まで遅れてきたのではないか。そういったことが言いたかったのだと思う。
当事者からの真正面からの主張は、いわゆるクソリプのように、時にないがしろに扱われる。だから彼女は文学を選んだのではないか。文学というフィクションを通して、物語で訴えかける。そこに込めた主張を、読者が耳をすまして聴けるように描く。そんな彼女の企みがあったのだと想像すると、『ハンチバック』は本当にすごい。
ただ生きているだけでは見えない事柄が、私たちにはまだまだあって、文学はそれに色を塗る。
市川さんの『ハンチバック』を読んでいると、クソリプでさえも市川さんの戦略のうちではないかという気がしてならない。反論されるということは、議論の場に立たせたということ。無視されていた事柄に、反応させたということ。
こうやって議論になるのだから、『ハンチバック』は本当に力がある作品なのだと思う。『ハンチバック』がこのままブームになって、興味のある人も、ない人も、むかついた人も含めて、多くの人に読まれてほしいと思う。
市川沙央さん 芥川賞受賞会見
169回芥川賞受賞作『ハンチバック』
私の推し『それは誠』
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