デストピアとは言ったものの。
レイ・ブラッドベリ「華氏451度」(新訳版・伊藤典夫訳)
オーランドー(ヴァージニア・ウルフ)を読んだ後だったのでスラスラ読めました。(オーランドーについてはまた改めて書きたいことがたくさん・・・)
そもそもはトリュフォーの映画「華氏451度(1966年)」から知って、とても気にいったのでこの本は僕にしては珍しく以前にも読んだ事があったはずなんですが、辿ってみると映像的な記憶でしか思い出さなくて今回読んでみてあれ?こんなだったっけか?って思いました。(ベイティーも「キャプテン」としか呼ばれてなかったんじゃないかな?)
本訳の「昇火士」という造語訳には頓知を感じます。(以前の「焚書官」というのも重みがあって好きなんですけどね)
さてしかし、1953年に書かれたものとはおもえないみずみずしさ、いま調べたんだけど1953年ってNHKが日本で初のテレビジョン本放送をやった年らしいですよ。そんな時代のSF。しかし読み進めると、「なんだ、今じゃん」って思う描写が数多く含まれていて、ブラッドベリの想像力に感服します。
いちおう、ザクっと内容説明。
作中に言及はないのですが、現代から考えると300年後くらいの未来。
主人公のモンターグは「昇火士(ファイアーマン)」という仕事をしています。
「昇火士(ファイアーマン)」は「消防士(ファイアーマン)」とは違い(この世界では家は完全に防火建築となっており「消火」する必要がない)、この世の中で違法となった「本」を燃やす仕事です(なので旧訳版や映画字幕では「焚書官」と呼ばれている)
ある日、モンターグはクラリスという不思議な(「ものを考えるということのできる」という)少女に出会い、また「昇火作業」で火炙りになった老婆の家から本を密かに持ち帰ってしまうことから、仕事や世の中(妻を通して語られる)に疑問を抱くようになる。。
というのが前半のお話です。
ベイティーの言葉
この「昇火」に対して疑問を持ちはじめたモンターグの家を、上官であるベイティーが訪問します。
ベイティーはどう考えてもたくさんの本を読んでいる、そうしてその知識を武器としながら、知識があること自体をバカにしている、非常に狡猾な人物として描かれています。
何故本を燃やす「昇火士」という仕事が生まれたのか、ベイティーはモンターグに語ります。
あれ?いまだよね?
って思いました。単純化したものや焼き回しでないと企画が通らない日本のドラマやハリウッド映画を思い浮かべました。
さらにベイティーの語りは続きます。
ユーチューブ?ファスト映画?
ウィキペディア??
ツイッター?インスタ?TikTok?
もう、半分現実だよね、って思ってしまった。
実際に倍速で映画を観る人も、テロップがなければテレビの言葉を聞き取れない人も、能動的な活動が必要とされる読書、漫画すらも読めなくなってきている人も全然驚くことではなくて、現実のものとなってきていることを感じています。
厄介なのは、本を焼く行為がこの世界では全く悪いこととは認識されていなくて、「人は幸せになるために生きている」「そのためには煩わしい考えを抱いてしまう本などない方がいいだろ?」「こっちは絶えず楽しみを供給しているんだ」という論理が、現在現実の中でも基礎工事くらいまで終わってるんじゃないかと直感的に
感じられるところです。
「ちょっと便利な裏技」とか「簡単料理」とか「綺麗なお姉さんのダンス」とか「ねこ」とか、次の画面にスクロールした瞬間に忘れてしまう膨大なデータを僕らは毎日満腹になるまで浴び続けているわけで、なんの目標や締め切りや欲望もなくてこれから一生何もしないで暮らせますよと言われたら僕でもずっとその”事実”のシャワーを浴び続けるかもしれないと思ってしまいます。
ちなみに、この一連の会話の中で、「お前、野球は好きか、モンターグ?」と聞くシーンもあります。ニュースが政治不正のことを全然流さず、大谷翔平ばかりやってる理由も、1953年に語られているわけです。
ブラッドベリ自身はこの話を「愚民政策」の意図としては書いてないそうですが、
いま僕らはいろいろ言ってもご飯をちゃんと食べることのできる人がほとんどという世界の中でみれば極めて裕福な国にいて、考えないでいい情報を膨大に与えられ続けている「パンと見世物」の中の一人なわけで、僕は陰謀論者ではないのだけれども、なんだかバカにされているような空恐ろしさも感じるわけです。
ちなみに
ちょっと聞いた話ですがここnoteも「長い文章」「長い引用」、あと「改行の少ない文章」や単純に「難しいこと言う」は嫌われるらしく、「図入り」「箇条書き」「短め」「勉強になった気がする」「言ってることは一個」くらいの方が「いいね」は獲得しやすいとのことです。そんなの知るかと思って書いてます。