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碁盤目ポルナレフ

 京都市内は通りが碁盤目になっているからわかりやすいという人がいますが、実際は意外にちゃんとした碁盤目にはなっておらず、ところがこちらの頭としては「碁盤目である」という認識であるから、故にそのズレによって道に迷ってしまうことも割とあります。あまり行かない場所だとなおさらです。

 昨日は出町柳駅から歩いて一乗寺へ向かったのですが、だいたいの感覚でいうと、出町柳駅の北東へ向かえば一乗寺であり、東西を貫く北大路通りを横切ることになるわけなので、出町柳駅から北東を目指せばやがて北大路通りにぶち当たるだろうというなんとなくの目論見を抱きながら北東へ北東へ歩いていたつもりなのに、どういうわけか、私は高野川沿いを通る川端通りに出てしまったのです。いやあ、驚いたね。どのくらい驚いたかといえばジョジョの三部でポルナレフがディオのいる上の階へ上がったつもりでいたのに気づけば階段を下りていたときくらい驚きました。

あ…ありのまま 今 起こったことを話すぜ!な… 何を言っているのか わからねーと思うが
おれも 何をされたのか わからなかった…
おれは 北大路通りに着くと思ったら
いつのまにか川端通りにいた。
な… 何を言っているのか 
わからねーと思うが
おれも 何をされたのか わからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…
催眠術だとか超スピードだとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…

 京都に住んでいるとこういうことがよくあります。

 ない?あなたがないのならそれで構いません。私はある。あなたより私のほうが京都の恐ろしさを肌で感じているといえる。この恐ろしさを体感できるのは方向音痴であるがゆえであろうし、そうであるなら方向音痴も悪くない気がする。

 前にも書いたかもしれませんが、方向音痴でいうと、私は駅のホームで電車を待っているとき、結構な割合で思ってた方向と逆方向から電車がやってくることがあり、その電車に乗ってからもずーっと逆方向に向かって走っているような気持ち悪さを抱えながら電車に揺られているのですが、目的地が近づいてきて見覚えある景色が見えてきた途端に、グルンっと世界が回転して自分のなかの方角と世界の方角がピタッと一致する瞬間があるんです。あの瞬間がもう本当に他の何ものにも代え難いほど爽快であり、世界を修正してやったという達成感を味わえるのです。方向音痴でなければたぶんあの感覚は一生味わえません。あのピタッと一致したときの全知全能感ときたら。

 しかし、思えば人の世などというものは、多かれ少なかれ、あのピタッと一致する瞬間について自覚的であるかいなかで決まるものなのではないかとも思う。最初っから「わかっている」とそこには辿り着けない。「わからない」ことをしっかり認めたうえでわかろうと努め努め努め切ったとき、向こうからチャンスがやってきて、それをちゃんと捕まえればピタッと一致するんだと思う。

 アホだったり、下手だったり、弱かったりするほうが、そうじゃない人たちより優れているのはきっとその点であり、賢かったり、上手だったり、強かったりする人には絶対にわからないし、今後私が賢くなり、上手になり、強くなればわからなくなるものなのだと思うから、そうであるなら私は、これからもピタッと一致させられるように生きていきたいと思うのです。

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