【随想・随筆】ディストピアは既に完成しているという話~現代社会の不気味さについて~

現代社会がいかにシステムに依存し、人間というものを機械の如く扱い、その本質を理解しようとしていないか。そして我々の素朴な身体感覚がどれほど蔑ろにされた社会になってしまったか。最近そのことを強く実感する。
今回はそのことについて、実例を交えながら話していきたい。

まずはセブンイレブンのレジの話から。
前にもちらっと書いたが、セブンイレブンのレジでは直接的な金銭のやり取りはなくなり、代わりにレジにある機械の中へ金を入れるシステムに変わった。
そして、金を入れてからお釣りが出てくるまで、店員は「一言も発せずつっ立ったまま」である。
私はこれを最初に見たとき、痛烈な違和感を感じた。会話すらしない人が目の前にいるのは不気味だし、まるでロボットのようであった。まあ多くの人は慣れたのかもしれないが、私はこれを機にセブンイレブンはもちろん、コンビニを使う機会が減った。最後にセブンに行ったのは確か2年前だった気がするけれど、要はそれくらい長く行っていない。
なぜ違和感を感じたのか。
それは、買い物というのが単なる金と物の交換ではなく、売り手と買い手のやり取り、意志疎通であることを肌感覚で理解しているからだろう。セルフレジ的な仕組みは本来の買い物、商取引ではない。単なる金と物の交換でしかなく、そこに意志疎通の要素はない。個人商店に行くと、むしろ店主との距離が近くなり、必然的に会話が生まれる。無言あるいは事務的な会話だけでは気まずい、そういう風な空間になっているわけだ。
無愛想な店員に腹が立つ、という御仁も多いだろうが、客だって同じ穴の狢だろう。一言も言わずに帰る客も少なくない。もはやコンビニやスーパーは交流の場ではなく、単なる交換の場所になりつつあるのだろう。実に悲しい話だ。
セルフレジの使い方がわからず、操作方法を教わる人もいれば、新潟編の私のように、バーコードを複数読み取ってしまい、取り消し操作をお願いする場合もある。これは最初から店側でやれば済む話。効率化が聞いてあきれる。かえって不便だろう。便利なはずの機械が、むしろ不便さを助長している。これをディストピアと呼ばずして、何と呼ぶのか。

次。
そもそもスーパーやコンビニ、家電量販店、まあ空港や駅のお土産店でも何でもいいが、あそこに置いてある商品の話。随分たくさんあるが、いったい、いつ、どこで、誰が、どのように、何の目的で作ったのか。そして、それがどのような経路で運ばれてきたのか、全くわからない。要はブラックボックス化され、見えない薄気味悪さを感じる。産地が遠ければ遠いほど、それを如実に感じる。海外なんか特にそうだ。
そして、ほぼ全ての商品が工業製品であろう。つまり、人が丹精込めて作ったのではなく、機械が作ったものでしかないという不気味さ。同じ規格の商品が、同じ速度で、同じ数だけ生み出され、同じ規格で箱詰めされ、店にずらりと並ぶ違和感。そしてその商品は「バーコード」という名の「数字」で管理される。
まあ今や国民に番号をつけるふざけた時代だ。『こち亀』の両津勘吉も怒っていた。
「国民を番号で呼ぶんじゃねえ!」
と。ごもっともだ。
そして、商品を運ぶ人の姿もよくわからない。誰が作っているのか、運んでいるかわからない商品をカートに入れて、セルフレジで手持ちの金と交換する不気味さ。レシートも機械が出す。レジの担当者の個性ある直筆ではなく、毎回同じ書体、同じメッセージが書かれている。極めて予定調和的で、偶然性はない。何も面白くないですな。
子どもの頃は何も気にしなかったが、神経質な私は気になると意識から離れなくなる。
何かおかしくないか?と。
工業文明が醸し出す、この無機質で冷酷で、どこか人を突き放すような淡白な印象。現代社会の世知辛さを象徴していると私は思う。

そしてベッドタウン及びその駅。なんだ、眠るまちっていうのは。眠るだけのまちに文化が育つわけないだろうが。まあ快適でさえあれば良い、という軽薄さを抜けきれないこの国の尻軽ぶりが滲み出ている。文化というものの価値を理解しないのだろう。彼らは文化ではなく、文明を愛する。スマホを愛し、景色を愛さない旅行客と同じだ。
無秩序に市街地を広げた結果がこれかよ。大都市の尻を舐めてるだけじゃないか。住民たちよ、情けないとは思わないのか?誇りを取り戻したらどうなんだ。
ベッドタウン特有の、都市近郊型の駅ほどつまらないものはない。魅力的な店があるわけでも、秘境駅のような風情があるわけでもない、ただ通勤通学で乗り降りするだけの駅。そんな駅ばかり作ってどうすんだ。
ただでさえこの国には思想も哲学もないというのに、文化まで捨て去り、育てようとしないのか。怒りを通り越して哀れみすら覚えるわ。
何度でも言う。「さっさと【尻軽】を卒業しろ」と。

そして列車の全車指定席と自動改札機。今や当たり前だが、よくよく見るとこれも不気味でしかない。
指定席の予定調和的世界観も気に入らないが、「車内改札がありません!」と声高にアピールしている愚かさ。
アホか。客と意志疎通しないでどうすんだ。まあ昨今はエゴイズムの蔓延でバカな客も増えたし、苦労は察するが、バカなやつは放っておけばいい。それより、客との心温まる会話が生じる余地すらないではないか、これでは。
駅の改札も不気味だ。自動改札機にきっぷを通す。駅員はモニターを見るばかりで、客に一瞥もくれず、挨拶すらしない。
なんだそら。セブンのレジと同じじゃねえか。楽しいか?そんな仕事が?
そして学生に求める能力第一位は、「コミュニケーション能力」
ギャグですか?客との会話すら放棄した連中が「コミュニケーション能力」がほしいと?
言ってることとやってることが真逆だろうが。客とろくな会話すらしない奴らにコミュニケーション能力を語る資格があるとでも?まあそうだわな。自動券売機が「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」言うてくれはりますものな。あんたらは別に客と会話せんでもええのやろ。誰に向かって言ってるのかわからへん、無機質な機械音声やけどな。

まあそういうわけで、機械文明の末路としての不気味さ。ここ最近、特にそれを強く感じるようになった。これで旅情が湧くことなどあるまい。山本夏彦翁の言うように、「何も得られない旅」など行かず、家で古典文学でも読んでいたほうがまし。それくらいひどくなっている。今の社会は。これはユートピアではなく、ディストピアだろう。
ちなみに船の食堂もタブレット注文になっていた。「手書き」の伝票の手触り感もないし、会計もセブン式。お金を機械に入れるだけ。旅情ある船の旅など、もはや過去の話ということか。そういう身体感覚を無視して接客の質がどうだの語っても無意味だと言っておく。
手書き、手触り、生の顔と声。そうした「生きた」身体「心通う」営みあってこそのコミュニケーションだろうが。機械化してどうすんだ。船は旅情ある乗り物じゃなかったのか?これじゃ、新幹線と変わらないではないか。

詩人は特に注意した方がいい。身体感覚を奪われてしまうと、詩的感性が削がれる。まあ、伝票がないなら自分で手書きするしかあるまい。面倒でも毎回書く。それを記念に持って帰り、旅の記念とする。手触りというのは記憶に残る。直接書いた、触れたものは特に印象に残るからだ。店側が用意しないなら、自分で作るしかあるまい。
タブレットの機械端末のレシートなど、記憶にも残るまい。記憶に残らないものは、存在しなかったのと同義。メフィストも言っているではないか。
「過ぎさったものと、最初からなかったものは、全く同じではないか」
と。
そんな旅を、買い物を、いくら続けたところで意味はない。加速する社会、システム化する社会で、私たちの大切な「記憶」は奪われ、それを残す手段、風習も失われてきている。新幹線の旅行は記憶に残らない。タブレットのレシートも記憶に残らない。
でも、それが嫌だったという記憶は鮮明に残る。何のための旅か、買い物か。問い直すべし。
SNS全盛の現代では写真やブログでやたら「記録」したがる。日常のあらゆることを。だが、それに反して私たちの「記憶」はどんどん貧困化し、乏しくなっている気がしてならない。この問題はいつか詩でも扱うかもしれない。
とにかく、私は素朴な身体感覚を取り戻すべく、システムへの抵抗を続けたい。
以上。


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