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【連作短編】一つの願いを叶える者 第五話 私を呼んでください。

第五話 私を呼んでください。

手にたくさんのレジ袋を下げて、誰もいない自宅に戻る。一人で住むには、この2LDKのマンションは広すぎた。

ダイニングテーブルにレジ袋を置いて、中に入っていた数多くのタッパーを取り出した。タッパーの中には、俺の婚約者であるはるかの母親が作った総菜が詰まっている。帰り際に、家で食べるように持たされた。

きっと、すごく気を遣わせてしまっているんだろうな。

タッパーを冷蔵庫にしまう。冷蔵庫には飲み物以外はほとんど入っていなかったから、タッパーを全て入れてもまだまだ余裕があった。代わりに冷やしていた缶ビールを取り出す。夕飯もごちそうになってきたから、つまみは特にいらないだろう。

リビングに敷かれたラグに座って、ネクタイを緩める。缶ビールを一口飲んだ後、天を仰いだ。

青葉あおばくん。もう、遥のことは忘れてください。」
遥の父親に先ほどそう切り出された。
「遥はもう目が覚めるかどうかも分かりません。青葉くんにも未来がある。婚約は破棄していただいて構いませんから。」
そう言う遥の父親も、その隣にいる遥の母親も、顔色が優れない。

「・・もう少し、待たせてください。」
俺は彼の申し出にそう答えることしかできなかった。

遥は俺の婚約者で、このマンションで一緒に暮らしていた。既に双方の両親との顔合わせも終わり、結婚式の予約も済ませていた。籍を入れるのは、彼女の30歳の誕生日の前日にするとも決めていた。遥が、20代のうちに結婚したいと言い張ったからだ。

遥の誕生日まであと一ヶ月余りという時に、彼女は交通事故に遭った。意識不明の重体だったが、一命は取り留めた。その後、体は回復したが、彼女はいつまでたっても目覚めなかった。脳が損傷しているというわけでもなく、なぜ目覚めないのかは原因が分からなかった。

彼女は退院し、今は実家の彼女の部屋で眠り続けている。ここに連れてきたい旨を彼女の両親に申し出たが、俺に仕事があることや、まだ籍を入れていなかったことなどを理由に、それは叶わなかった。

俺は仕事帰りに、そして休みの日に、彼女の実家に通い詰めている。彼女の両親は、俺のことをまるで息子のように思ってくれ、夕飯をごちそうになったり、総菜を持たせてくれたりする。そんな日々が既に数ヶ月続いている。

俺は代わりに足しになるかは分からないが、お金を置いていくことしかできない。最初は受け取りを固辞こじされたが、「その方がお互い気が楽になりますから。」と言ったら、受け取ってくれるようになった。

本来ならば、既に俺たちは結婚し、結婚式や新婚旅行も済ませているはずなのに。日付以外の記入がすべて済んでいる婚姻届と、結婚指輪は、机の引き出しにしまわれたままになっている。

手元の缶ビールは、早々に空になってしまった。彼女が事故に遭ってから、酒の量が増えているなと思いつつ、もう一缶飲もうかと、顔を冷蔵庫の方に向けると、その前に白いもやのようなものが見えた。
靄は段々と広がり、その内、人の形をとった。
短い髪、白く体のラインを拾わない服を着ている。その人は、俺に向かって腕を広げて言った。

「貴方は選ばれました。貴方の願いを一つ叶えましょう。」
「は?」

どうやら、お酒が回って、幻覚を見だしたらしい。

目をこすってみたが、その人は消えることなく同じところで、同じ姿で立っている。

「貴方は選ばれました。貴方の願いを一つ叶えましょう。」
「繰り返さなくていい。聞こえてる。」
俺がそう言うと、相手は首を傾げたようだった。

「では、早く願いをおっしゃってください。」
「願いって何?そもそも、君は誰?」
「私は貴方の願いを叶える役割を持つ者。ただし叶えられる願いは一つだけです。複数には変えられません。なお、これはよく聞かれるので、あらかじめ言っておきますが、それの見返りとか代償は求めません。」

相手は、高くもなく低くもない声で、理路整然と言葉を連ねた。
「で、願いはどうなさいますか?」
「そんなの一つしかないけど。」
「では、それをおっしゃってください。何でも、叶えます。」
こんな都合のいいことなどあるのかと思いつつも、俺はただ一つの願いを口にした。

「俺の婚約者、遥を目覚めさせてほしい。」
「分かりました。遥さんはどこにいるのですか?」
「え?彼女の実家だけど。」
「申し訳ありませんが、貴方の願いを叶えるには、遥さんに触れないといけません。」

俺が顔をしかめたのが分かったのか、相手の声が微かに慌てたような響きを帯びた。
「貴方が遥さんの側にいる時に、空中に向かって私を呼んでください。そうすれば、私は貴方の元に現れますから。」
「呼ぶって・・名前は?」
「そういえば、私には名前がありませんでした。好きなように呼んでいただいて結構です。」

「じゃあ、ハクで。」
白い者というイメージしか湧かなかったので、それから連想し名付けた。相手はそれを聞いて笑みを浮かべたようだった。
「ハクですね。では、呼ばれるのを待っています。」
そう言って、ハクは俺の前から姿を消した。


目の前で眠っている遥を見つめる。鼻には栄養を取り込むためのチューブが付けられているが、それ以外は特にただ眠っているだけの彼女に見える。
「遥。」
俺は彼女の名を呼び、その髪や頬を撫でる。それに気づいて目を覚まさないかと期待して。ここ数ヶ月同じことを繰り返してきた。

それも、今日で終わるかもしれない。

俺は、あの出来事は夢か幻だったのかもしれないという考えが払拭ふっしょくできなかったが、たった一つの存在にすがる思いでその名を呼んだ。
「ハク。」
「はい。」
俺が顔を上げると、遥が横たわっているベッドの向こう側に、ハクが立ってこちらを見つめていた。白いオーバーサイズのTシャツに、白いジーンズ。その肌は白く、顔立ちは中性的で、やはり年齢や性別は分からない。

「この方が遥さんですね。」
俺がその言葉に頷いたのを見てとると、手を伸ばして、彼女の前髪を払い、その額にてのひらを載せた。ハクは空中に目を向けると、そっとまぶたを閉じる。息を殺してその様子を見守っていると、ハクの掌の下の遥のまつげがぴくっと震えたように見えた。握っていた彼女の手に思わず力を籠める。

「青葉・・?」
遥のかすれた小さな声が、俺の名を呼んだ。遥の瞳が確実に俺の姿を捕らえていた。彼女はぎこちない微笑みを浮かべる。
「遥・・!」
彼女はこちらを見て、口をハクハクと動かした。俺は彼女の声を聞こうと、その口に顔を寄せる。彼女は俺の耳元でこう言った。

「青葉が私を呼ぶ声、聞こえてた。」
「!」
「待っててくれてありがとう。青葉。」
「遥。本当に良かった。本当に。」
嗚咽おえつを噛み殺している俺の耳に、遥のものではない声が入った。

「貴方の願いは叶えました。」

俺は驚いて、声がしたほうに顔を向けたが、そこには誰もいなかった。
「青葉。どうしたの?」
遥が不思議そうに問いかける。彼女には今の言葉は聞こえなかったらしい。
「いや、何でもない。」
俺はそう言って、目覚めた最愛の人に向かって笑いかけた。


高見純代さんからリクエストを受けて書いたものです。


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