【短編小説】私は君の声を抱いて眠る。
風香は、キッチンで沸かしたお湯を、ゆっくりと時間をかけて飲む。
体はポカポカと温かくなってくるが、相変わらず眠気は来ない。
もう半年くらい、風香は夜中になぜか目が覚めてしまい、それから数時間寝られない日々を過ごしている。絶対的に睡眠量は足りないが、それでも翌朝は起きて、仕事に行かなくてはならない。
自宅ではノンカフェインの飲料を飲むようにしたり、寝る前にホットミルクを飲んだりと、試行錯誤はしているものの、睡眠障害は解消されていない。
本当は運動した方がいいのかもしれないけど、昼間に仕事をしている身ではなかなか難しい。
風香は、スマホに入っているカラオケアプリを起動した。
眠れない間、彼女は一人カラオケアプリで、歌を歌う。
元々歌を歌うのは好きだった。学生時代も一時期、何かといえば友達とカラオケに行った。今は身近に一緒にカラオケに行ってくれる友人もいない。
住んでいるのはマンションだけど、隣に響くくらい大声は出していないから、・・多分大丈夫だと思う。隣人にうるさいと抗議されたこともないし。
アカウントは「花音」。知人の名を一部拝借した。
何曲かお気に入りの歌を歌っていると、フォロワーになっている「風流」からDMが届く。
『今日のリクエストは?』
風香は少し考えた後、『「ドライフラワー」』と返した。
『ベタだね』
うるさい。風流の声質にはこの歌が合っているのだから、いいんだよ。
『じゃあ、こちらのリクエストは、スピッツの「スターゲイザー」で』
風香は『了解』と返答を返すと、スターゲイザーを歌って、アップした。その後、風流のページから、先ほどアップされているドライフラワーを聞く。
やっぱり、いい声なんだよね。
風香は毎日、風流にリクエストした歌を聞いてから、眠りについている。
彼の歌を聞くと、よく眠れると分かったからだ。
風香がアプリ上で風流の存在を知ったのは、夜中に目が覚めてしまうようになってからすぐだった。というより、向こうからコメントが届いたのだ。
『声が好きです』
他にアップした曲を聴いた人からコメントは貰っていたが、声が好きだと言われたのは初めてだった。風香は歌うのは好きだけど、あまり自分の声が好きではない。自分の歌をアップする時は、事前に自分でその歌を聞いてからアップするから、自分の声が客観的に聞いてどうなのかは分かっている。
だから、そのコメントは風香の気を引いた。彼女は風流のマイページを訪ねて、彼の歌を聞いてみた。
風流の声は風香の好みにぴったりと合致した。今までも様々な人の歌は聞いていて、女性では好きな声の人がたくさんいたのが、男性では初めてだった。
だから、風香はすぐにコメントを返し、フォローし合った。
風流の歌を何度か聞いてみた結果、風香は彼の歌を聞くと、そのまま眠りにつきやすいと気づいた。試しに、歌う曲をリクエストさせてほしいとお願いしたところ、彼から快諾を得て、風香も代わりに彼のリクエスト曲を歌うというやり取りを続けた結果、今の状態に至っている。
彼の歌は、風香の睡眠導入剤なのだ。
「おはようございます。いつもと同じメニューでいいですか?」
「・・今日はブレンドだけでいいです。お腹空いていないので。」
風香がそう答えると、顔なじみの店員である彼の表情が曇った。
「朝食はしっかりとった方がいいです。量減らしますから、ちゃんと食べてください。」
「でも・・。」
「でもじゃないです。待っててください。」
彼が準備を始めるのを見つめながら、風香はレジ近くにいる男性に目を向ける。男性は風香の視線に気づくと、こちらに向かって口を開いた。
「いつもながらすみません。風香さん。」
「いえ、私の方こそなんですけど。ここまで気にかけてくださらなくていいんです。」
「風香さんが、いつも寝不足気味の様子で来るのが、気になってしょうがないみたいです。もうすぐ就活でそれどころではなくなりますから、今だけ大目に見てください。」
2人の話を耳にして、彼は手元の皿に視線を向けながらも、口だけを挟む。
「マスター、余計なこと言わないでください。」
「就活ですか?もうそんなになるんですね。」
風香が彼を見つめると、彼は視線をそらしながら、風香の前にブレンドとモーニングセット量少な目を置いた。
ここは、風香が長年通っている喫茶店だ。毎日のように仕事前に朝食を食べに来ている。毎日家を出るギリギリまで寝ている彼女は、家で朝食を作って食べる時間がない。だから、代わりにこの喫茶店でブレンドとモーニングセットを食べている。
店員の彼は、マスターの息子さんで、この喫茶店でバイトをしている。風香は大学生の時から、この喫茶店に通っていたから、もう付き合いは5年くらいになるのではないだろうか。初めて会った時、彼は高校生だったのに、間もなく社会人なんて、自分も歳を取ったものである。
風香は用意してくれたモーニングセットに手を付ける。
「怜音君も、私と負けず劣らず眠そうに見えるけど。」
「大学の課題や卒論をやっているだけです。ちゃんと睡眠時間も確保してます。」
「そして、今度は就活かぁ。ということは、バイトももうすぐ辞めちゃうの?」
「・・ギリギリまでやりますよ。他の人雇うとなると、人件費が上がるので。」
怜音の言葉に、マスターは困ったように笑う。
「店のことは心配するなって、言ってるんですけどね。」
「家族思いだね。怜音君。」
「家族を心配するのは当然です。そして、風香さんも家族のようなものだから心配してるんです。」
怜音が真剣な眼差しで、風香を見つめる。彼女はなんとなくいたたまれなくなって、視線をそらした。
『今日のリクエストは?』
『「ツキミソウ」かな』
『じゃあ、こちらは「蒼のワルツ」で』
『難しくない?』
『前に歌ってたと思うけど。あのさ、花音。しばらくこの時間に歌うのが難しくなるんだけど』
最後の風流の言葉に、花音こと風香は、スマホの文字を打つ手を止めた。
『歌うのやめるの?』
『違う。深夜に歌うのが難しいってこと』
深夜に彼が歌ってくれないとなると、彼の歌を子守唄代わりにできなくなる。無理にこの時間に歌ってほしいとは、さすがに言えない。しばらくは今までにアップされている彼の歌を聞くので、我慢するしかないだろう。なぜか、既にアップされている歌だと、眠りにつくのに時間がかかるけれど。
『もっと早い時間なら可能なんだけど。例えば20時とか』
彼の提案に、風香は考え込む。20時なら自宅には帰っている時間だが、その時間に彼の歌を聞いて、眠ってしまうのにはちょっと早い。
リクエストだけして、彼の歌を聴くのは寝る前にすればいいのか。
考えてみると、普段寝る前に彼の歌を聞くという発想をしたことがなかった。もしかしたら、夜中に起きなくて済むようになるかもしれない。
『分かった。じゃあ、20時にやり取りするようにしよう』
『明日から決行ってことで、よろしく』
彼とのそのようなやり取りの後、風香の生活リズムが変わることになった。
自宅に帰ってきて、夕飯を食べると、大体20時くらいになるので、風流とリクエストのやり取りをし(つまり一曲その場でリクエスト曲を歌わないとならない)、お風呂に入って、寝るのが22時くらいなので、その前に彼の歌を聞く。おかげで彼女は深夜に目が覚めることがなくなった。
だからと言って、朝の喫茶店通いはなくならなかった。
風香は喫茶店で朝食をとる時間を、ひそかに楽しみにしていたのだ。
彼女の実家はここから遠く、年末年始くらいしか帰省しない。マスターや怜音が家族扱いしてくれるのが、嬉しかったのかもしれない。
風香の睡眠が改善し、顔色が前より良くなったのを、怜音が「自分のおかげだよね。」と得意げに言ってくれたのも、実際はそれだけが理由ではないのだが、素直に嬉しかった。
そして、就活のためか、怜音がバイトに来る日が少しずつ減り始め、風香は彼と全く会わなくなった。それに伴い、彼女の問題は再発した。また夜中に目が覚めるようになってしまったのだ。睡眠導入剤代わりの風流の歌を聞いているのに、である。
『夜中に目が覚める?』
『今までは風流の歌を聞けば、よく眠れていたんだけど』
こんなことを話してもどうにもならないとは思ったものの、風香が相談できるのは風流しかいなかった。今まで誰にも話したことがない自分の悩みを、風香は彼に話した。彼の歌を寝る前に聞くとよく眠れると言うと、さすがに風流も驚いたようだった。
『一旦は改善したんでしょ?』
『歌う時間を20時に変えてからは、夜中に目が覚めることはなかった』
『その後に変わったことは?』
『その家族みたいな存在だった人に、会えなくなったことくらい』
なかなか答えが返ってこなかったけど、しばらくして通知音と共にメッセージが表示された。
『会いに行っちゃえば?』
『相手は忙しいのに迷惑だよね?』
『家族が困っていたら、助けてくれるものなんじゃない?』
・・確かに自分の家族が同じような状態だったら、手を差し伸べたいとは思うかも。怜音は風香の本当の家族ではないけれど。
『相談してみる』
『花音の不眠が改善するといいね』
改善するのだろうか?原因がよく分からないから、彼に会ったところで、改善するとは言えないのだけど。
『今日は「猫」をリクエストする』
『了解。じゃあ、こちらは「プラネタリウム」で』
寝る前に聞く風流の歌声は、風香の眠気を誘うと共に、彼女に勇気をくれた。
「風香さん。お久しぶりです。」
怜音は喫茶店のカウンターの中ではなく、客席に座って待っていた。
リクルートスーツを着ているが、ネクタイは外されている。
今日は複数の面接を受けてきたとマスターから聞いていた。
「忙しいのに、時間作ってもらってごめんね。」
「いいんです。何か困ったことがあったと父から聞きました。僕で相談になれることであれば、何でも聞きますよ。」
怜音は席をたつと、風香を喫茶店の外に促した。喫茶店の入り口の隣に、マスターと彼が住んでいる自宅の入り口があるのだ。彼はその入り口を鍵で開ける。扉を開くと玄関があり、そのまま2階に続く階段へと続いている。
「どうぞ。」
「お邪魔します。」
彼に続いて、2階にある一室に入る。その部屋には、机やベッドが置かれている。てっきりリビングに通されると思っていた私は困惑する。
「ここは・・。」
「僕の部屋です。父から大まかに話は聞きました。夜目が覚めて眠れなくて、睡眠時間が少ないのに困っているとか。」
「そうだけど。」
「だったら、寝られるところがあった方がいいかと思いまして。」
それはそうだけど。
怜音は弟のような存在であるとはいえ、一応男性だ。しかも、異性の部屋に入ったのなんて、中学生以来?
「好きなところに座ってください。」
彼に言われて、床に敷いてあるフロアクッションの上に、座る。
「えーと。今眠いですか?」
首を横に振ると、そうですよね。と言って、彼は笑った。
「寝るふりしてみましょうか。そしたら眠くなるかもしれないし。」
目を瞬かせた風香に向かって、彼はベッドを指し示した。
こちらから無理を言って時間を取ってもらったのだからと、思い直し、風香はベッドの上に横になる。
「普段は何をして眠っているんですか?」
「歌を聞いてる。」
「歌ですか?それは好きな歌とか?」
ベッドの横に膝をついて、寝ころんでいる風香と視線を合わせている怜音は、若干首を傾げて問いかける。
「そう。」
「今は何が聞きたいですか?」
「アポトーシス。」
怜音は風香の答えに軽く頷くと、彼女の方に身を乗り出し、その耳元に自分の口を近づけた。
風香の耳に聞こえてきたのは、風流の歌声だった。
風香が彼の顔を見つめると、怜音は歌いながら、目を細めて笑った。
「いつから気づいてたの?」
「・・結構前かな。決定的になったのは、風流として、花音の悩み相談に乗った時。」
「私、全然気づかなかった。」
「風香さんは、歌と普段の声が近いから。」
怜音がそう言って、目の前で笑うのを、風香は苦々しく思いながら、見つめている。
結局、あの後、直に風流の歌を聴いて、風香は爆睡した。怜音の部屋のベッドで、隣に彼本人がいるにも関わらず。起きた風香は、ベッド脇の机で、パソコンを操作している彼に声をかけると、怜音は今までのことを全て話してくれた。
自分がカラオケアプリで風流と名乗っていたこと。深夜に歌えなくなったのは、就活や卒論が忙しくなってきた為。自分の歌が風香の子守唄になっていたことは、相談されて初めて知ったが、なら、直接会って、直に声を聞いたら解決するのでは、と考えたのだそう。
彼の答えを聞いて、風香は頭を抱える。
「まさか本人に悩み相談をしてしまうなんて。」
「僕は嬉しかったですけど、相談されて。」
「それでも。」
「・・よかったですね。よく眠れて。」
怜音は、風香の顔に自分のものを近づけて、視線を絡める。
距離の近さに、思わず頬が熱くなった彼女は、視線をそらそうとしたが、彼の手が顎下にかかったから、顔を動かすことができなくなる。
できるだけ冷静を装い、ぶっきらぼうに彼女は彼に問いかける。
「なに?」
「・・いや、顔色もよくなったみたいでよかったです。」
「・・おかげさまで。」
「自分の就活終わるまでは、週1ペースで通ってください。」
そのまま言葉を続けられ、風香は、その言葉を頭の中でうまく咀嚼できなくて、動きを止める。怜音は彼女の様子を見た後、深く息を吐く。
「直に歌を聴かないと、うまく眠れないんでしょう?毎日は無理ですけど、週1くらいならなんとか都合つけます。」
「いや、それは。」
「何なら、一緒に住みます?ここから、仕事に行けばいいんでは?朝食は一階で食べればいいし。」
「そんな迷惑はかけられないよ。」
怜音は風香の言葉を聞いて、機嫌を損ねたような表情を見せると、彼女の体を引き寄せて、腕の中に抱え込んだ。
「怜音君。」
「迷惑なんかじゃないですよ。」
「・・。」
「・・家族・・なんですから。」
「ありがとう。怜音君。」
風香は、その優しい言葉に涙ぐみそうになるのを、必死でこらえる。怜音は、それ以上言葉を紡ぐことなく、ただ彼女の背に回した腕に力を込めた。
終
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