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「刻石流水」と「懸情流水 受恩刻石」

日頃から多くの恩恵を受けて生活している。

皆さん、他人に情けをかけたことがありますか。
ただ、心地良い楽しい時間を共に過ごしているだけですか。
恩を受けることは相手であり、自分が恩を与えてやっていると思うことはないですか。
知らず知らずのうちに生活のすべてが恩着せがましい生き方していませんか。

下記の二つの言葉と出会った。

◎「刻石流水」(こくせきりゅうすい)


「受けた恩は石に刻み、かけた情は水に流す」という意味です。
しかし、「かけた情を石に刻み、受けた恩を水に流してしまう」不思議と逆になることがある。

また、同じ言葉で下記を引用します。

◎『懸情流水(けんじょうりゅうすい) 受恩刻石(じゅおんこくせき)」』

同じようなことが皆さんにもありませんか?会社のためにと思って働いていたはずがいつの間にやら働いてやっていると錯覚をしていませんか?

親のため家族のためにと日々励み、その人たちの笑顔に癒やされていたはずなのに、自分が一生懸命皆のことを考えているからみんな苦労知らずに生きていられるのだ。自分ばかりが苦労をしていると思ってしまうことはありませんか?私は知らず知らずのうちに生活のすべてが恩着せがましい生き方をしていたのだと気づかされました。

今月の言葉『懸情流水(けんじょうりゅうすい) 受恩刻石(じゅおんこくせき)」とは「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め。」という釈尊のお言葉です。報恩講御満座の結讃「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし」どちらも似た意味であります。しかし今回しみじみと感じさせていただきましたのは、私においては情けをかけたなんてことは一つもなかったなということです。情けや恩をかけたように思っていたことはどれひとつ取ってみても、周りに赦され、認められていたに過ぎないのだと思うのです。この度の御本山報恩講ひとつを取ってみましても、御本山からお役目を頂戴し、妻や親に苦労をかけながらも自坊を離れ、御門徒さんの法事の依頼は待っていただけたことで成り立っておりました。私の手柄などひとつとしてなかったのです。 http://honkohji.jp/2022/12/post-309.html

浄土真宗 東本願寺派富鶴山 本弘寺Hpより

再度。
皆さん、他人に情けをかけたことがありますか。
ただ、心地良い楽しい時間を共に過ごしているだけですか。
恩を受けることは相手であり、自分が恩を与えてやっていると思うことはないですか。
知らず知らずのうちに生活のすべてが恩着せがましい生き方していませんか。

自然に発する「ありがとうございます」という言葉を大切にしたいです。


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