紺野登の構想力日記#08
POV【4】
世界のなかで安住しない
◇ 天空の覇者トンボ
季節は秋だ。家の近くの池のほとりを、ぼくはいつも散歩する。夏の終わり頃には、トンボの姿をよく目にした。その独特な飛び方が好ましい。
いつのことだったかもう記憶の彼方だが、ある夏の日の夕暮れに、赤トンボが草葉にとまってじっとしている姿を見て、思った。
あの眼は、何を見ているのだろうか、と。
「視点」ということを深く考えるようになったのは、あの時のトンボの姿がきっかけだったように思う。
トンボは昆虫である。昆虫は、現在は地球上でもっとも小さな生き物の一つだが、いまから約3億年前のトンボは巨大だった。古生代の地球は、巨大な昆虫の支配する世界。巨大トンボ、メガネウラ(メガニューラとも)は、羽を広げたときの幅は最大で75センチ近く、全長も40センチ以上あったと推測されている。おそろしく大きい。
この巨大トンボは、まさに天空の覇者ともいうべき獰猛なハンターだった。
トンボといえば、その特徴は大きな複眼である。古生代の巨大トンボも、もちろん巨大な複眼を備え、ほぼ360度の視野で世界を見渡していた。
ホバリングはできなかったといわれるが、飛翔しながらその視野の中に獲物の姿をキャッチするや、上空より急降下して襲いかかり捕食していたのだろうか? あるいは1メートル近い羽を広げたまま地上をのし歩き、トカゲなどのエサを捕獲していたのかもしれない。
ゴジラ映画に出てくる「メガギラス」は、このメガネウラをモチーフとして生み出された怪獣だ。怪獣のモデルになるほどのスター性が、メガネウラにはたしかに備わっている。
しかし、天空の覇者にも、いずれ絶滅の危機がおとずれる。
環境の変動により酸素濃度が低下し巨体を維持できなくなり、さらに生息域だった森に水が浸入してきて生きる場所を奪われた。空の王者といえど、自然の変化には勝てなかった。
◇ 視点の再生を!
巨大トンボ、メガネウラは絶滅したが、その後もトンボは3億年の長きにわたって進化を続け、現在のような姿になった。
体格は10分の1ほどに小型化。しかし、相変わらず現在のトンボも完全な肉食である。飛翔しながら、ハエや蝶や蛾を空中で捕食する。そのために、超広角の複眼をずっと進化させてきた。現在のトンボは飛翔能力も高度だ。急停止、急加速が可能。飛んだままでの空中静止というスゴ技も持っている。瞬間的に時速100キロを出すこともできる(オニヤンマ)らしい。
あの時、草葉にとまっている21世紀の赤トンボの姿を見ていて、にわかにわいた疑問。
あの眼は、何を見ているのだろう?
もしかしたらトンボは、いまも3億年前と同じように、自分は天空の覇者だと思っているかもしれない。体格こそ小さくなったが、いまも超広角の視野は維持している。自分は上空から世界を360度見渡しているのだ、すべて見えているのだと、意識や自己認識は大昔のままかもしれない。
そんなふうに考えていたら、その小さな赤トンボの姿が、急にいまの自分たちのように思えてきた。なんとか生き延びてはいるけれども、かつてのような力はない。それでもなお、自分たちは世界を支配していると錯覚している。そんな倒錯のなかにいる人類、国家、企業・・・。
企業についていえば、逆にいつまでも中小企業の感覚で大企業を経営しているとうケースもあるだろう。
国家もそうである。グローバルな時代になっているのに、依然として古代社会の村のような組織としての国家を続けているのが日本だ。
いまこそ視点の再生が必要なのでは・・・?と自問する。
視点の再生は、これまでとは違う現実世界を再構成することである。そもそもぼくたちは、自分たちでつくり上げた、なんだかよくわからない環境のなかで生活している存在だ。だから、「これってなんか変だな」とか、「なんでこうなっているんだっけ」といった感覚は、日常のなかでも始終味わっているはずである。その「あれっ?」と感じる瞬間に、視点に裂け目ができ、その裂け目から異なる世界を、誰もが覗いているはずなのだ。問題は、その視点の裂け目を、自分に引き寄せるか、あるいは遠ざけるか、である。
この構想力日記で書いてきたことを振り返る。
まず視点のズレ(#05)を自覚し、離見の見(#06)で自己のとらわれから逃れて視野を解放し、自分も世界も共に溶けあうような無の世界から、野生の視点(#07)を取り戻して新たな世界をブリコラージュ(#07)していく。
いま自分が在る世界のなかに安住することなく、越境し、つねに視点を再生しながら生きていく。かといってただふらふら動き回っているというのではない。自分が動くことで世界も動いているというダイナミックな相互作用を実感しながら生きる(#07)。
構想力はそういう生き方のなかで発揮されていくのだと思う。
◇ U理論は好きだけれど
ちょっと抽象的になってしまったので、ここで、視点の再生を「視点の遷移」としてプロセス化した、未来創造のためのモデルを紹介しよう。
「U理論」をご存じだろうか。
提唱者は、MITのオットー・シャーマー博士である。
U理論は、「集団や組織が新たな未来を創造するためのリーダーシップのプロセス」をモデル化したもので、約120人の、ビジネスリーダー、社会変革家、思想家に、博士自身がインタビューをして生み出されたものだ。
2007年に出版された『U理論(Theory U)』(邦訳は2010年11月)には、「過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術(Leading from the Future as It Emerges)」という副題がつけられている。
その研究課程には、ぼくの師でもあり『構想力の方法論』はじめいくつかの著書の共著者でもある野中郁次郎先生が関わっておられ、「知識創造理論」をベースにさまざまなアドバイスをおこなっていた。
「シャーマーは禅仏教に関心があったので、来日した時には禅寺に連れて行ったりしました。そんな経緯もあって、U理論には当時の僕の論文がすべてリファレンスに挙がっています」と、野中先生はあるインタビューで話している。
『U理論』の前に出版された、ピーター・センゲ博士(「学習する組織」で有名)たちとの共著『Presence: An Exploration of Profound Change in People, Organizations, and Society』(2005年)の、邦訳版『出現する未来』(講談社、2006年)の監訳を野中先生が引き受けているのもそんな経緯からである。
さて、U理論のプロセスは、以下のようにあらわされる。
これは人の内面の変化のプロセスをあらわしたもので、それには「ダウンローディング」から「実践」に至るまで7つのステップがあり、自己認識を深めていく前半のプロセスと、そこから新たな未来を実現していく後半のプロセスはU 字型に表現できるという。なので、U理論というのだ。「You(あなた)理論」という響きもある。
野中先生も言っているように、シャーマー博士は仏教、禅を探求していて、『出現する未来』のなかでも、東洋思想への接近について繰り返し言及している。
ぼくも、U理論のコンセプトを最初に聞いたときに、瞬時に禅の思想との連関を強く感じた。
以前の日記(#04)で、日本に禅の思想を確立した道元の『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)に触れたが、U理論は、道元の説く「空」から「縁起」への悟り(解脱)の境地を、西洋思想風にアレンジして一つの「プロセス」に可視化したもののように思えた。
むろん、禅の悟りとは、プロセス化したりモデル化したりできるものではないのだが。
◇「空」とPresencing(プレゼンシング)
仏教では、自己や世界の存在は、それらが個別の要素としてあるのではなく、すべては関係の中で成り立っていると考えられる。
人は、いわゆる要素還元主義的な、自分がいて他者がいて物があって社会があって国があって……というような認識のなかで普段暮らしているが、そういったいっさいのとらわれから解放されて「空」になることを、悟り、解脱という。
道元の研究者である倫理学者の頼住光子氏は、以下のような図を使って、禅における解脱を説明する(『道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか』頼住光子、NHK出版、p.79)。
これは野中先生とぼくの共著『美徳の経営』(NTT出版、2007)の最後のところで「先駆的語り」について、
●「現実」の二元論的世界から解脱して、
● 深層の「空」の世界に入り、
● そこからさらに主客未分の、世界との関係において自己を再構成する
(『美徳の経営』p.228)
と書いたときに参考にさせていただいた図だ。
図を見て読者のみなさんもピンときたと思いますが、U理論の原型もここにあるのだろうと思われる。
この図で、上部は世界の表層的次元を表し、下部は深層的次元を表している。上部はいわゆる現実であり、下部は「空」の次元ということになる。日常生活をおくる人間がいるのは現実➀である。これは仏教的な立場からは「俗世」と呼ばれる。ここでは、自己も存在も要素としてそれぞれ独立したものであると考えられている。(略)現実➀における自己は、自己同一的なものとしてみずからをとらえており、さまざまな役割を演じ意味ある存在となることによって、自分が自分であるということ、すなわちアイデンティティー(自己同一性)を証明し続けるよう求められる。(略)そこでの認識の基本図式は主客対立の二元論である。
仏教における「発心」(仏道へ入る決意)とは、このような現実➀を離脱しようと決心することである。(略)固定化された現実➀に対して虚しさを感じ、ひいては現実それ自体を否定することに至るということである。(略)「発心」するとは、俗世がみずからの存立のために提供するさまざまな神話をすべてかえりみず、自己と世界の真理を探究しようと決意することなのである。
発心した者は修行僧として日々修行することになる。修業は真理の体得をめざすものである。(略)
ここでいう真理とは、何らかの最終的回答のようなものでも、それさえ知っていればすべてが解決する万能の教えというようなものもない。仏教における真理の体得とは、「空」の体得に他ならない。
「空」の体得とは、まず第一に、すべてのものが「無自性」「無差別(むしゃべつ)」であり、さらに無分節の全体であることを知り、「空そのもの」を体験することである。これを「解脱」という。
現実➀に身を置いていた月日に培ってきた要素還元主義的、主客対立的な考え方は、修行を通じて徐々に転換され、ある時、それまでの認識の枠組みを崩壊させるに至る。それによって、「空そのもの」と出会うのである。(略)無分節な全体へと帰還するという意味で、世界と自己とが一つになったともいえる。(略)
真理としての「空そのもの」は、有限な人間にとっては完全に言語化することが不可能であり、同時に認識によって完全に枠付けすることの不可能な、その意味で絶対的に他なるもの、無意味そのものでもある。
(『道元 自己・時間・世界はどのように成立するか』頼住光子、NHK出版、2005、pp.78-82)
構想力には「視点」が大事であることについて今回まで4回にわたり連載してきたが、視点の再生は、このようにしておこなわれるのだと、ぼくは考えている。
悟りとか解脱というと、なにやら抹香臭かったり、神秘思想みたいに思われがちだが、道元の教えは実践の知である。構想力の方法論も、そうした実践知と結びついたものであると考えている。
◇ 世界を再構成するには?
では「空」にたどりついたあと、どうするか。
「空そのもの」に留まることは、それはカオスである。そこから世界をもう一度立ち現われるようにしなければならない。それには、やはり「言葉」が必要になるという。
言語表現によってもう一度世界が立ち現われる。(略)言葉の網の目をかけることによって「空」の世界を分節しようとする。(略)このように「さとり」を通じて現実を再び立ち現わさせることを、道元は「現成」というのである。(前掲書、p.83)
ここで現実②が立ち現われてくるのだが、現実➀と現実②は、「花が咲き、木が茂る」といったことに違いはないのだが、世界のとらえ方がまったく違ってくる。花も木も断片的な要素ではなく、「すべてのものが、他のすべてのものと関係しあいながら一つの全体世界を形づくっているととらえられる」、これが「縁起」の世界なのだ。
悟りによってカオスを通って再生された視点から、言葉と言葉をつなげて新しい関係のなかに意味をつくっていくということなのだろう。U理論でいえば、Realizingである。
視点の再生ののち「言語表現によってもう一度世界が立ち現われる」――。
なるほど、構想力においてナラティブが重要であるわけは、この一言に言い尽くされているなぁと思う。
次回からは、自ら語り出すこと、言葉を紡ぎ出すことについて考えてみたい。
紺野 登 :Noboru Konno
多摩大学大学院(経営情報学研究科)教授。エコシスラボ代表、慶應義塾大学大学院SDM研究科特別招聘教授、博士(学術)。一般社団法人Japan Innovation Network(JIN) Chairperson、一般社団法人Futurte Center Alliance Japan(FCAJ)代表理事。デザイン経営、知識創造経営、目的工学、イノベーション経営などのコンセプトを広める。著書に『構想力の方法論』(日経BP、18年)、『イノベーターになる』(日本経済新聞出版社、18年)、『イノベーション全書』(東洋経済新報社、20年)他、野中郁次郎氏との共著に『知識創造経営のプリンシプル』(東洋経済新報社、12年) 、『美徳の経営』(NTT出版、07年)などがある。
Edited by:青の時 Blue Moment Publishing
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