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しめかざり探訪記[12]福島県耶麻郡「会津民俗館」――会津民俗館で藁の民具を探訪する

 今回は番外編。
 しめかざり探訪の途中で、猪苗代湖畔にある「会津民俗館」に立ち寄った。その展示品には「藁」関連の民具も多く、私個人としては初めて見る驚きの民具もあったので、少しだけ紹介してみようと思う。後半では、会津若松で生まれ育った山内政文さんによる、実生活での生き生きとした民具のお話。

◼️藁にねむる

 2019年12月30日。猪苗代駅からバスで10分、小雨まじりの会津民俗館に到着。近くに野口英世記念館やいくつかの飲食店があり、観光地の一角という感じだ。
 古民家風の入口で入館料を払い、まずは「第一展示室」へ。そこには会津の製蝋用具や仕事着コレクションなどが千点以上並び、蝋燭一本をつくるためにこれほど沢山の道具が必要なのかと驚く。しかしどうしても「刺し子」のコーナーでは消費者目線になってしまい、「欲しい〜」の連発。刺し子の「カカトガケ」、かわいいなあ。

 そんな中、私の目はある民具に釘付けとなった。「箱床」だ。
 木の板で1畳ほどの箱を作り、そこへ大量の籾がらや藁を敷き詰めた寝具。この中で人が眠る。以前、布ぶくろの中へ藁を詰めた「藁布団」の話は聞いたが、「箱」状のものは初めて見た。解説によると「箱床」のルーツは江戸時代にあり、展示のものは昭和46年までその習俗のまま残されてきたという。
 身近に大量の藁があったこと、そして藁自体が構造的に暖かく、湿気をよく取ることも寝具に適していた。しかし、なぜ「箱」なのか。「布団」ではいけなかったのか。その答えは、展示室を出た先にあった。

↑箱床

 展示室を出ると中庭が広がり、そこには国指定重要文化財の「旧馬場家住宅」(南会津)が移築されていた。馬場家住宅は江戸時代の農民家屋で、馬を家の中に入れて一緒に生活していたという。
 馬と共に暮らすという状況が想像できなかったが、家屋に入った瞬間、「ああ、こういうことか!」と合点した。そこには、想像をはるかに超えた大きさの「土間(ニワという)」が広がっていた。外から帰ってきて家の戸を開けたのに、なぜかまた外に出てしまった、という不思議な感覚。この馬場家に関していえば、屋内の9割が土間だと言ってもいい。座敷はお情け程度に付いていて、炉も土間のほうへ切ってある。馬の世話はもちろん、炊事、藁打ち、脱穀も、この広い土間でおこなった。今は展示用に照明が付いているが、当時はかなり暗く寒かっただろう。
 ここでやっと先の「箱床」と繋がる。あの「箱」は、会津の厳しい寒さや土間の底冷えを防ぐためだった。箱状にすることで隙間風を防ぎ、藁の保温効果を高めた。おそらく良い香りにも包まれて、藁への愛着は夜毎に深まっただろう。

↑旧馬場家住宅の土間
↑炉も土間のほうに切ってある
↑土間は生活用具に囲まれている

 会津民俗館には、移築された古民家がもう一軒ある。「旧佐々木家住宅」(大沼郡)という県指定の重要文化財で、こちらは名家らしく立派な佇まい。屋内は展示場も兼ねており、天井から床まで大量の民具で埋め尽くされている。藁に関するものだけでも、円座、つと類、藁だわし、養蚕道具、みの、わらじ、藁すぐり用具、菰などなど。どれも生活の煤や汗が染み込み、使い手のクセによって変形している。何ひとつ同じものはない。
 その中で、不思議な存在感を放つ縄があった。それは太くゴツゴツとしていて、天井から何本も滝のように吊るされている。よく見ると、ベースとなる縄の上に、別の縄が執拗とも言えるほど巻かれていた。館内の薄暗さもあって少し怖いくらいだ。

↑展示されていた不思議な「縄」

 解説文がなかったので館の人に詳細を聞きたかったが、気がつけば帰りのバスの時間が迫っていて、あわてて民俗館を出た。まさかこれが、山内さんを巻き込むことになるなんて……。

◼️藁との生活

 探訪を終えて東京へ戻った。しかし年明けすぐの1月15日、私はまた会津に向かった。会津若松市に住む山内政文さん(88歳・当時)に、しめかざりや昔の生活について取材をするためだ。
 この取材時、私は深く考えもせず、例の不思議な「縄」の写真を山内さんに見てもらった。何かご存知ないでしょうか? 山内さんは知らないようだった。もちろん、それで構わなかった。
 しばらくして山内さんから手紙が来た。なんと、「会津民俗館」へ足を運んだというのだ! 同じ会津とはいえ、ご自宅から民俗館のある猪苗代湖が近いわけではない。ご年齢を考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 けれど山内さんの手紙には愚痴の一つもなく、昔の民具と対面した懐かしさと、自らの経験にもとづいた民具解説が書かれていた。以下に、その臨場感ある文面を引用させていただき、いくつか民具を見てみたい。

《馬飾り》
 いや、その前に、前述の不思議な存在感を放つ「縄」について解決しておこう。山内さんが直接民俗館のかたへ聞いてくれたようで、手紙にはこう書いてある。
 「この縄は『馬飾り』とのこと。お祝い事(祝言など)に馬が出される時、馬の首にかけたと言います。複数本掛けることもあるとか。縄と一緒に飾る物もあったのか聞いたら、まあるい金物(カランコロン音がする)を見せてくれました。」

 なんたること。私が勝手に恐怖すら感じていた縄は、「呪い」ではなく「祝い」の縄だった。この幾重にも「渦」が巻かれた造形は、強い祝福の気持ちなのだろう。そう、「唐草模様」が果てしなく増幅して繁栄を祈るように……。
 山内さん、本当にありがとうございました。

↑よかった。祝いの縄だった。

《雪踏み俵》
 さて、山内さんの手紙によると、「雪踏み俵」は冬の生活に欠かせないものだった。
 「雪踏み俵」は、藁で編んだ「俵」状の履物で、会津に限らず積雪の多い地方でみられる。それを両足に履いて雪の上を踏み固め、人々が歩くための「道」を作る。決して歩きやすいものではなく、「履物」というより、道を作るための「道具」だ。

↑会津民俗館の「雪踏み俵」

 以下、山内さんの体験談。
 「除雪車なんて想像もつかない昭和20年代頃、平坦部でも豪雪でした。一晩に30cmなんてざらでした。朝早く集落の小走さん(世話人)が拍子木で、『雪踏み人足』を知らせて回ります(一戸に一人が担当)。彼らがそれぞれ分担の道を踏み固めます。先頭の人は大変です。降り積もった雪の高さまで足と俵を持ち上げなければ進めません。そして後から数人で幅を広げたり、丁寧に踏んだりします。わが集落は小学校があり、通学路が7本あったと記憶しています。集落の村境まで、学童の通る時間までに作業を終えました。雪踏み俵は大変な備品でした。」

 私はこれまで、「雪踏み俵」はもっと個人的な道具だと思っていた。しかし実際は、集落のために、集落の人々と一緒に使う道具。地域の結束力も、踏み固める。
 早朝、「雪踏み人足」以外の住民も、拍子木の音で目覚めることがあっただろう。布団の中でまどろみつつ、「ああ今日も道を作ってくれている」と感謝していたかもしれない。

《横槌》
 横槌は藁などを柔らかくするための道具で、丸太状の頭部の「側面」で叩く。縄綯いには欠かせない道具だ。頭部に対して柄が直角に付いているのは「カケヤ」という。

↑会津民俗館の「ツチンボ」(横槌)

 山内さんは、農家の冬仕事は概ね縄綯いだったと言う。
 「高さ60cmくらいの『ワラ打ち石』に藁を置いて、クタクタになるまでカケヤで叩きます。時には親子で向かい合って、ワラを回しながらまんべんなく打ちました。それは低学年児童の仕事でした。
 しめ縄の時は叩かないけど、普段の縄は叩いて柔らかくします。『新米の百姓は固い藁でヤッコク(柔らかく)作る。ベテランはヤッコイ(柔らかい)藁で固く作る』とさんざん言われました。」

 つまり、新米百姓は叩き方が甘く、藁が固いまま綯ってしまうので、しまりのない縄になる。けれどベテランはしっかり叩いて柔らかくし、しまりのある縄を作る。以前、私も横槌を持ったことがあるが、想像以上に重かった。20〜30回も叩いたらヘトヘトで、新米百姓の気持ちはよくわかる。
 「藁を柔らかくしたら縄を綯います。昭和20年代まで農家の冬仕事は概ね縄綯いでした。沢庵でお茶を飲み、ゾウセマンマ(残り飯とおつゆの残り)を食い、ひたすら縄を綯っていた。ゾウナワ、コスリカケナワ、コデナワがあり、それが僅かな現金収入になりました。」

 会津民俗館にはさまざまな大きさ、形状の横槌が展示されている。自分の手の大きさや体力、または叩く素材に合わせて自作していたのだろう。横槌一つ一つに、きっと縄のような長い物語がある。

◼️日常の延長線上に……

 山内さんの手紙はさらに続くが、今回のnoteでは最後にこの一文をお借りする。
 「1955年以前、農業が機械化する前は農作業用品、生活用品を稲わらで作っていました。衣服以外はほとんど稲わら細工の品々で生活できました。年末に作るしめ飾りの美しい姿は、日々の必需品製作の技術あっての表現と思っています。」

 山内さんにとってしめかざりは、藁との「日常的な」つながりの先に、無理なく生まれた文化なのだろう。
 いっぽう年末に突然、スーパーや露店で「藁」と対峙する私たちは、人見知りのようにモジモジしてしまう。

 自分にとって、「日常の延長線上」に無理なくあらわれる「正月」とは、一体どんなすがたなのだろう。
 自分は、どんな風に年を越したら心地よいのかな。
 しめかざりのことは一旦脇に置いて、そんなことをぼんやりと考えてみたくなった。

※本稿に掲載の写真はすべて許可取得済み。
※本稿の内容は2019年のものであり、現在の状況とは異なる場合があります。

森 須磨子(もり・すまこ)
1970年、香川県生まれ。武蔵野美術大学の卒業制作がきっかけで「しめかざり」への興味を深めてきた。同大学院造形研究科修了、同大学助手を務め、2003年に独立。グラフィックデザインの仕事を続けながら、年末年始は全国各地へしめかざり探訪を続ける。著書に、自ら描いた絵本・たくさんのふしぎ傑作集『しめかざり』(福音館書店・2010)、『しめかざり—新年の願いを結ぶかたち』(工作舎・2017)がある。
2015年には香川県高松市の四国民家博物館にて「寿ぎ百様〜森須磨子しめかざりコレクション」展を開催。「米展」21_21 DESIGN SIGHT(2014)の展示協力、良品計画でのしめ飾りアドバイザー業務(2015)。2017年は武蔵野美術大学 民俗資料室ギャラリーで「しめかざり〜祈りと形」展、かまわぬ浅草店「新年を寿ぐしめかざり」展を開催し、反響を呼ぶ。収集したしめかざりのうち269点を、武蔵野美術大学に寄贈。
2020年11月には東京・三軒茶屋キャロットタワー3F・4F「生活工房」にて「しめかざり展 渦巻く智恵 未来の民具」開催。
https://www.facebook.com/mori.sumako 

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