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しめかざり探訪記[9]――佐賀県佐賀市  鼓の音のするほうへ

 今回は、昨年末に訪れた佐賀県佐賀市のしめかざり探訪について書いてみる。コロナ下ということもあり旅自体を躊躇したが、この時点では感染者数が落ち着いていたので万全を期して向かった。

車窓からこんにちは

 12月31日、大晦日の朝7時。羽田空港でANA451便に乗り込むと、窓には朝焼けが広がっていた。久しぶりに機内で飲むコーヒーを味わいながら、自分が本当に「旅」を自粛していたのだと実感する。飛行機も伸びやかに雲を突き抜け、2時間ほどで佐賀空港に到着した。
 まず、佐賀城を目指そう。そこには「鼓の胴の松飾り」という特異な名をもつ正月飾りがあるらしい。「鼓の胴」とは楽器の「鼓」のことだと思うけど…。
 空港から佐賀城への直行バスに乗ると、車窓からAコープが見えた。AコープはJA全農が事務局となる小売店で、地元の農家さんが作ったしめかざりを置くことが多い。私は急に姿勢を正し、この日のために鍛えた動体視力でAコープに飾られたしめかざりを凝視する。2秒の観察でわかったことは、ダイコンジメ系でシメノコが3束下がっていること。あとで街を歩いて照合したが、このあたりの一般的なかたちのようだ。

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(写真1・2)↑街でよく見かけたかたち。写真上はお寺。下は商業施設。

ストイックな「鼓の胴」

 バスは15分ほどで佐賀城に到着。城はすでに無く、広大な跡地に風が吹きすさぶ。寒波が来ているとはいえ、九州なのにこの寒さ。あたりに人はおらず、すべての風パンチを一身に受ける。
 城内を歩き、本丸御殿の一部を復元したという「佐賀城本丸歴史館」を見つける。ここに「鼓の胴の松飾り」が飾ってあるというのだ。建物の正面にまわると、確かにそれらしきものが見えた。遠目では「蝶ネクタイ」のような可愛らしさもあったが、近づいてみると確かに「鼓の胴」。能楽などでみる「鼓」を大きくしたようなかたち。威圧感はなく、思いのほか静かな佇まいだった。「鼓の胴」を形づくる「角」や「ライン」が正確に揃えられ、素材が藁だということを忘れてしまいそうなシャープさがある。しかし、たっぷりとしたユズリハ、橙、炭が、「鼓の胴」に柔らかさと明るさを添えている。

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(写真3・4)↑写真上は佐賀城本丸歴史館の遠景。写真下は「鼓の胴」。

年末の騒動

 そもそも、なぜ「鼓の胴」なのか。この由来が興味深い。
 時は寛永15年(1638年)。謹慎処分を受けていた佐賀藩主・鍋島勝茂は、江戸の佐賀藩邸で質素な正月準備をしていた。しかし年末になって突然謹慎処分が解け、正月飾りを用意していなかった鍋島家は困惑。急遽、松などの材料を集め、納屋にあった米俵などの藁を使い、にわかに松飾りを作った。その松飾りが鼓の胴の部分に似ていたことから、「鼓の胴の松飾り」と呼ばれるようになる。その後これを吉例として、明治時代までは県庁や市役所でも飾られていたという。現在、歴史館のものは保存会の方々が製作している。
 家中大騒ぎで俵を解いている光景を思い浮かべると楽しい。この歴史館の「鼓の胴」も、元が「俵」だったことを伝えるかのように、両サイド(桟俵部分)が俵の編み方になっている。「鼓」風に編むことも出来ただろうに、グっとくる演出だ。
 無理をして大晦日に来てよかった。年明けでは初詣客と遭遇して、じっくりと観察や撮影はできなかっただろう。

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(写真5・6)↑「鼓の胴」の両サイド(桟俵)部分

独創的な「鼓の胴」

 20〜30分その場を占領したあと、佐賀城を離れることにした。城のまわりの街を歩いてみる。そしてすぐに悟った。どうやら「鼓の胴」にはバリエーションがあるようだ。私は勝手に、「鼓の胴」は文化保存行事として歴史館のみに伝わるのかと思い込んでいた。当初はそうだったのかもしれないが、今では他の施設や旅館、商店、神社にも見ることができた。以下にいくつか写真を並べてみる。

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(写真7・8)↑与賀神社

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(写真9)↑徴古館

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(写真10)↑旅館

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(写真11)↑仏具店

 仏具店の店主は「これは花屋に頼んでいるのよ。毎年少しずつ違うの。例えば今年は『亀』が付いていたり…」と教えてくれた。たしかに鼓の横で、小さな亀が古代米の尾を揺らしている。
 江戸時代、佐賀藩邸で製作された「鼓の胴」の実際の姿はわからない。そもそも「鼓」のかたちを目指したわけでもなく、偶然の産物。しかし、だからこそ大きく想像を膨らませ、独創的な「鼓の胴」が生み出されているのだろう。

江戸の記憶

 ここで一枚、楽しい絵を紹介する。
 幕末の時代、幕府の御徒(おかち)であった山本政恒が、自らの半生を記した「政恒一代記」に掲載した挿絵である。そこには「鍋島家ノ松飾」として例の「鼓の胴」が描かれ、こう記されている。「鍋島家の飾は、鼓の胴皮締苧等藁にて拵ひ、大門に取付、締苧の先を門松まで引廻し、見事なるものと覚えり。」(※1)

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(写真12)↑「政恒一代記」に掲載された「鍋島家ノ松飾」(※1)

 この絵は山本が晩年、記憶をもとに描いたもので、実際の姿というより、印象を描きおこしたものと言える。しかし、鼓の緒を門松まで延ばしていたという記述は興味深い。もしかしたら、本来は松と松の間に張るはずだった「しめ縄」をイメージして、繋いでいるのかもしれない。
 ともかく、佐賀藩とは関係のない山本が晩年になっても覚えているほど、当時は話題になったのだろう。
 話は少し逸れるが、山本は幼少期の正月についてこう書いている。「毎年浅草へ行、飾〆を求むるを例とす。暮の市以後は、正月の来るを指折数へ楽しみ居たれど、十一歳の時上野へ奉公に出しよりは、門外へは少しも出る事叶わず。」(※1) 山本のような奉公少年にとって、町に飾られたしめかざりは「自由」の象徴だったのかもしれない。この挿絵の鼓があまりにも「鼓舞」していたので、ふとそんなことを思った。

■ 音で祓う

 今回佐賀へ行き、このような「しめかざり」の生まれ方もあるのだなと感心しつつ、年末に大切な俵を解いてまで設置せねばならなかった「しめかざり」の存在意義をあらためて思う。
 謹慎が解けたあと、鍋島家の人々はどのような思いで正月飾りを作ったのだろう。開放感の中で喜び勇んで準備したのか、それともお飾りが無いままトシガミを迎えることに心底焦っていたのか。そもそもなぜ「俵」を解いたのか。当時のことなら藁のストックくらいあっただろう。縄を綯う時間を節約したのか。あるいは、俵には「福」が宿るとも言われるので、わざわざ俵を使ったのか。
 いずれにせよ、しめかざりはとても「個人的」なものだ。その意義や作り方、飾り方など、上から御達しが来るわけではない。その家や属する集落が心地よく新年を迎えられたら、それで良いのだと思う。少なくとも「鼓」のしめかざりは「カーンッ!」という高音で、その場の魑魅魍魎を一掃してくれそうだ。

 それにしても佐嘉神社の隣にあった人気まんじゅう屋をスルーしたのはいまだに心残り。食べられなかった饅頭はとてつもなく美味しそうに思える。たまには「メシ」ではなく「シメ」抜きの旅がしたいなぁぁ(禁句)

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(※1)出典:山本政恒著・吉田常吉校訂『幕末下級武士の記録』時事通信社 1985年

森 須磨子(もり・すまこ)
1970年、香川県生まれ。武蔵野美術大学の卒業制作がきっかけで「しめかざり」への興味を深めてきた。同大学院造形研究科修了、同大学助手を務め、2003年に独立。グラフィックデザインの仕事を続けながら、年末年始は全国各地へしめかざり探訪を続ける。著書に、自ら描いた絵本・たくさんのふしぎ傑作集『しめかざり』(福音館書店・2010)、『しめかざり—新年の願いを結ぶかたち』(工作舎・2017)がある。
2015年には香川県高松市の四国民家博物館にて「寿ぎ百様〜森須磨子しめかざりコレクション」展を開催。「米展」21_21 DESIGN SIGHT(2014)の展示協力、良品計画でのしめ飾りアドバイザー業務(2015)。2017年は武蔵野美術大学 民俗資料室ギャラリーで「しめかざり〜祈りと形」展、かまわぬ浅草店「新年を寿ぐしめかざり」展を開催し、反響を呼ぶ。収集したしめかざりのうち269点を、武蔵野美術大学に寄贈。
2020年11月には東京・三軒茶屋キャロットタワー3F・4F「生活工房」にて「しめかざり展 渦巻く智恵 未来の民具」開催。
https://www.facebook.com/mori.sumako

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