「歴史学はこう考える」:歴史学者の思考と棋士の思考/「レコンキスタ」:反攻の三つの起源/歴史学研究者とその研究対象への「愛」/アニメ「株式会社マジルミエ」
10月7日(月)曇り
昨夜は9時前に寝たのだが、起きたら3時過ぎだったので一応6時間は寝たという感じ。早めにジャンプとスピリッツを買いに行くなど、早くから動いていたのだが、いろいろなことを考えてしまってやることがどうも散らかってしまい、ブログを書き始めるのが遅くなってしまった。
昨日は夕方岡谷に買い物に行ってタイムラインで話題になっていた松沢裕作「歴史学はこう考える」(ちくま新書、2024)を買ったのだが、少ししかまだ読んでいない。その感じでは、「歴史学者はこういうことをやっている」という自己紹介のようなものだなと思ったし、例えば写真家の歴史について書いたエッセイを読んで松沢氏がどう思うか、どう心の中でツッコミを入れるか、みたいな話は自分もよくやるし、こういう方向の考えなんだろうなとその写真家の知識のもとを想像しながら読むことは多い。
それでこういう傾向の見方をするならこれはこう考えるだろうな、と考えながら読んだりして、まあ大体それは当たるわけだけど、読む価値があるかどうかはどこまで新しいことを言っているか、あるいは独自のことを言っているか、つまり自分が考えたことのない史実の切り口を持っているか、みたいなことがあるかどうかで考えることが多い。
歴史学者の新しい説に感心することも多いけれども、歴史学の専門家でない人が自分が知らないことを言っていた場合は、元ネタがあることも多いので、それに興味を持ったらヒントを探してその元になった人の言説を読んでみたりすることもある。それが、例えば今ではあまり省みられなくなった考え方であったりすることもあり、それが今日的に見れば実は興味深い見方であったりすることもないわけではないので、「歴史学者だけでなく、多くの人たちが何をどうみるか」ということにはとても関心がある。
歴史学者の新しい見方といってもそれもまた「最新の仮説」に過ぎないわけで、つまりは将棋の新しい手順のようなものである。棋士たちがAIなどを駆使して最新の新しい戦型を生み出したりするのと同じなのだけど、それが今までの見方と比べて本当に有利、あるいは正しいのかはやってみなければわからない。将棋は盤上の変化に限られるけれども、歴史は森羅万象に関わるものだから無限に調べるべきことがあり、人間は有限だから調べること、考えることも限界がある。研究し尽くされたと思われたところに新しい見方が生まれることもままあるし、全く新しい分野を開拓することでその分野の先駆者になることもまだまだ可能である。(アフリカ史など)
「史料」を「同時代のもの」と断言している部分はちょっと引っかかったしそれはTwitterでどなたかも書いていたが、後を読むと「年代記」的なものも「史料なのか先行研究なのか微妙」という書き方もしてあり、まあ「より同時代のもの」、くらいのニュアンスで取ればいいかなと思う。近現代史ならともかく古代や中世の史料には何十年とか何百年のスパンで後に書かれたものもそう取り扱わざるをえなかったりすることもあるからだ。
というわけで29ページまで読んだところ。この本が面白いかどうかはまだよくわからないが、少なくともこの人がこう考えているということはわかるし、それは自分が知っている、あるいは学んできたことと全く同じではないことは明らかだから、「歴史を書くということ」について自分の中を検証してみるのに役に立つことは間違いないとは思う。
黒田祐我「レコンキスタ」。キリスト教世界がスペインムスリム世界を放逐し、キリスト教スペイン王国を打ち立てる過程をレコンキスタと称するとするなら、その中心となった勢力としてアストゥリアス王国→レオン→カスティーリャ王国という流れが一つあるわけで、その中でキリスト教世界によるイスラム世界との戦いという図式を考えると、ローマ教会と結びついたフランク王国というのは有力なライバルであり、実際のところ「西ローマ皇帝」さえ称しているわけだから、それに対抗できる権威が必要だ、という中で「聖ヤコブの遺体の発見」という出来事が起こり、それをサンチアゴ・デ・コンポステーラに祭り巡礼の地とする、ということが行われたのではないか、という指摘はなるほどと頷くところがあった。ローマ教会は「聖ペテロの後継」な訳だから同じく十二使徒でなければ対抗の釣り合いが取れず、イベリア半島に来たという伝承があるヤコブの存在は格好のものだった、というのはなるほどと思わされた。
レコンキスタの中心になったのはアストゥリアス王国だけではなく、ピレネー山脈西側のパンプローナ王国(ナバラ)もまたその一つだということは書いたが、もう一つカタルーニャのバルセロナ伯領もあった。こちらは元々はフランク王国のシャルルマーニュが進出した後、ルイ1世によって任命されたカタルーニャの諸伯領のうち、有力都市バルセロナの伯が最有力になったということで、こちらは南仏との繋がりや地中海への進出の志向が強く、南方イスラム世界への関心はそんなに高いわけではないのだが、アラゴン王国と連合することによりレコンキスタの片翼を担うようにはなるわけである。
アストゥリアス王国はレオンに進出しレオン王国と称するようになるが領域の拡大によりかえって危機を招き、今日のカスティーリャ・ラ・ビエハでカスティーリャ伯の台頭を招く。一方でナバラ王国のサンチョ3世の婚姻政策が功を奏し、カスティーリャと辺境伯領の一部アラゴンをその子たちが継承することになる。サンチョ3世はのちのカスティーリャとアラゴンの王たちの系図の一つの出発点になる。バルセロナはフランク帝国の下、ローマ教皇と協力しつつアンダルスとの境界への入植を漸進的に進め、フランスでもありスペインでもあるという曖昧な状態が続いた。
著者が強調しているのはこの間もキリスト教勢力もイスラム教勢力も一枚岩ではなく、キリスト教勢力がキリスト教勢力と戦うためにイスラム勢力と結んだり、またその逆も頻繁に行われたということと、またそれでありながら南北間には婚姻関係を含む人の流れやものの流れが途絶えなかったということである。もちろんこれは既成の「レコンキスタ」像を相対化するための記述であるわけだが、ここまで読んでくるとそれはそうだろうなということは思うようになってくる。86ページ第3章終わりまで読了。
実際のところ、歴史学の方法論とか読んでいるよりもこういう歴史叙述を読んでいる方が私にとってはずっと面白いのだが、歴史に携わる人の中にもそういう史料批判から叙述までの精密性に意義を見出す人と歴史的対象そのものの魅力や面白さで読む人、また現代におけるそれらの意味について考えることが主な関心である人など、さまざまなタイプがいるだろうと思う。
私は主に後二者にあたるわけで、特に最後者そのまま、こういう歴史事象の個別性のようなものを非常に好むところがある。これはまさに「歴史が好きだから歴史を勉強する」ということであって、「好きなことをやっている」面が強いのだが、しかしその研究や啓蒙そのものが何らかの形で使われるものにもなることには自覚的であった方がいいだろうと思う。これは「利用される」というマイナスのニュアンスを警戒する歴史学者の方が多いのだが、むしろ「活用する」というプラスのニュアンスで考えるべきだと私は思う。というのは、自らの国、あるいは我が人類の歴史を知ることは我々日本人、あるいは人類を知ることでもあるからである。我々が守るべきものは何なのか、ということについて、歴史を学ぶことを通じて見えてくることは多いと思う。
一方で、その極地は一つは「研究対象の現代における意味」を考えるということであるけれども、例えば第二次世界大戦であるとか日本国家の近代化などを研究する人にとってはそれは大きな意味があることだろうと思う。私も大学院でフランス革命を研究したのは、フランス革命の現代における意味、特に民主主義というものを考えるための一つの手段として研究した、という動機があった。
しかし、やっているうちにどうも自分のやりたいこととは違う、ということがわかってきたのだけど、つまりはフランス革命はフランスの歴史である、ということなわけである。歴史対象の興味という点では私は「ジロンド派」というものが「好き」なのだが、彼らから学べることがどれほどあるかというとそれは少し難しい。また特に関心があったのは1973年のジロンド派の追放の後、各地のジロンド派が起こした反乱事件、いわゆる「連邦主義者の反乱」であったのだけど、それらの各地域での研究内容などを読んでいると、なんというか郷土愛みたいなものを強く感じたのである。彼らは彼ら自身の歴史として、フランス革命をいうものをちゃんと知りたい、調べたいと思っているわけで、それは我々の持つ関心とはどうしても違うものになる。そして彼らの研究は時により牽強付会的なものがあることは、日本の郷土史家に地元の贔屓の引き倒しみたいな論文や研究内容がままあることと共通していて、なんというかそういうものを否定する気にならないわけである。
そういうものを読んでいると、我々がフランスの歴史を研究するということの意味が見えなくなるというか、我々の研究に愛はあるのか、みたいな感じになってくる。正直、フランス人の考えることは日本人が考えることとかなり違うし、もちろん文化的にもかけ離れている部分はあるわけで、歴史に関しても読めば読むほど共感できなくなる、というような部分があって、どうもこれは違うなと思わざるをえなくなってきたわけである。最後まで批判的な研究を貫ければそれはそれで良いのだが、他の院生や先生などと話していても、やはり「研究対象の国や事象を愛するようになる人は多い」というわけで、要はある意味「出羽守」化する人は少なくないわけである。これは、「愛さなければ研究を続けるのが辛い」という側面もあるような気はする。
というわけで修士課程を出た後はフランスについての研究はあまり続かなくなり、どちらかというと日本近代史に関心は移っているのだが、本格的な研究機関で研究しているわけではないのでまあ素人の域は出ない。一応は西洋史学的なものの考え方、見方みたいなものは身についているにしても、日本史は日本史で独特の見方のようなものはあるので、とりあえずは「専門外なのでよく知らないのですが」をやっているわけである。
これはまあつまり自分の思想形成にも結構影響を与えているというか、つまりは祖国愛と歴史愛というものを結構不可分のものと見ている部分が自分にはあるから、逆に言えば最初から日本史をやればよかったのだが、まあ今そういうことを言っても仕方がないし、逆に世界史を知っているからこその見方、みたいなものもあるだろうと思って今なお色々読み、考えているという感じである。
まあ歳も歳なので早めに自分の考えをまとめた本は出したいと思っている。
秋アニメが始まり、今季はかなり豊作なのだが、見ている時間があまりなく、とりあえずOPだけ見る、みたいな見方をしているのだけど、どれもそれなりに力が入っていて面白い。先程は「株式会社マジルミエ」の1話のアヴァンとOPを見ていたのだが、「魔法少女まどか☆マギカ」を思わせるOPで、これはおそらくはわざと寄せたのだろうと思うけれども、それ自体に不穏さを感じさせるのが上手い演出だなとは思った。Twitterを軽く見たけれどもそのことについて触れているものは見当たらなかったのだけど、「魔法少女」のようにバリエーションがたくさん作られた分野では、やはり先行作品をどのように踏まえるかというのがオマージュだったり確信だったりがあるわけで、そうした文脈を読んでいくのも醍醐味なんだろうと思う。
この作品は「ジャンププラス」水曜日の連載作品なのだが、少女と言いつつ魔法少女は全て成人女性で、企業活動として行われているという設定で、その意味で斬新である。魔法を使うことを仕事にする、という点で「魔女の宅急便」を思わせるところもあり、また就職活動がうまくいかなくて、結果的に才能を見出されて魔法少女になるとか、それもその才能は「マニュアルを読む才能」だったりするところが企業社会的でもあるわけである。
アニメやマンガについても書きたいとは思うのだが、本を読み始めるとそちらの方に脳内リソースを取られるのでなかなか描けないなあとは思う。まあぼちぼち行きたいと思います。
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