世界観的な瞑想/「ブッダという男」仏教の包摂力とキリスト教の破壊力/「ダンジョン飯」:「食べる」という地に足のついた行為の強さ/「イスラエル軍の人質殺害」と「民主主義国家の蛮行」
12月17日(日)曇りのち晴れ
昨日は「ブッダという男」で第10章「ブッダの宇宙」のあたりまで読み、「ダンジョン飯」の13巻から14巻前半の世界観的な描写を読んでいたせいか、今朝起きた時に世界観的な思考というかある種の瞑想みたいな状態に入って、しばらくの間その思考で三昧的な感じになっていた。起きたら5時で寝たのはおそらく10時くらいだったから結構寝たし、5時時点での気温が4.2度でかなり暖かい感じがしていたのだが、だんだん冷え込んできて最低気温は日が上ってしばらくしてからの8時24分に0.7度。明け方から朝にかけて急に寒くなったような感じがする。
いろいろ考えたことをそのままにするのはもったいないのでノートに4ページくらい書いたのだが、澱みに浮かぶうたかたがかつ消えかつ結んでいるような感じでその時の思考の深さとかは記録はできないのでこういうのは不思議なものだなと思う。こういうものが本来のモーニングページだと思うのだが、いつもそういう瞑想的なものが出てくるわけでもないので時によって感じが違うなと思う。
そしてこういうものは必ずしも文字に起こそうとするとそのヴィヴィッドな感じが消えてしまったりもして、だからこういうブログやnoteの形で残すのは難しいのだが、それでもいくつかは書いておこうと思う。
思ったのは、一つのブログ、ひとつのnoteに話題は三つまで、くらいにした方がいいなと。それらがそれぞれ関連していれば三題噺になるし、まあそうなるのが理想的だけど、なかなかそうもいかない。書きたいものがあっても後回しにするのがまあ正しいということなんだろうと思う。普段からそれだけ書く時間的余裕とそれを戦略的に発表できる工夫をする時間みたいなものがあればいいのだが、それもなかなか難しい。生産力があってもそれに応えた形で発表が追いつくかというと必ずしもそうでもない。
「ブッダという男」読んでるが、上に書いたように読んでいて少しあっちの世界に行ってしまっていたので論理的に感想を書きにくいところがあるのだけど、一番の感想は仏教というものはもっと直観的なものだと自分が勘違いしていたところがあり、知の積み重ねの上に成り立っている宗教であるのだなと思ったということだ。これは鎌倉仏教の通俗的解釈、つまり「難しいこと考えなくてもただ座っていればいい=只管打坐」みたいな感じだとか「難しいこと考えなくてもただ念仏や題目を唱えていればいい」みたいな感覚が「正しい」という感じを感覚的に持っていた、というようなことと繋がるのだが、「難しい議論をするより現場に立てばわかる」みたいな現場主義、のような日本社会の傾向に対してある種自分から迎合する気持ちが自分の中にあったということだなと思ったりした。
それから仏教の他宗派に対するマウントの取り方が、「君の祖師の言ってることは仏教の中では三番目に位置付けられていてまだ一番上に達してないよ」感じで、つまりは人の教えを吸収してさらにその上に構築していく、みたいな感じの構築的な宗教なのだなと思ったこと。
というのは、仏教というのは段階とか場合分けが好きだなというかめちゃくちゃ多いなという感想を今までも持っていたのだけど、例えば六道輪廻の考えで地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道が下の方はともかく人間の上に天があるというのがなぜかと思っていた。
しかしこの本を読んでいて、これはつまりはバラモン教の理想、「輪廻して天人に生まれ変わる」という思想を取り込んでいるからなのだと合点がいった。しかし仏教あるいはウパニシャッド以来のバラモン教では天に生まれ変わってもこれも現象界なので再び輪廻して下の世界に生まれ変わる恐れがあるから、バラモン教では生まれ変わる自我の本体(アートマン)は祭祀によって宇宙の本体であるブラフマンと一致すると考えることで輪廻(で転落すること)への不安を取り除くわけだ。
しかし仏教では自我そのものが「存在しない=無我」と考えるから、それが宇宙の本体と一致することなどない、と考えるし、またブラフマン(梵天)もごく初期から宇宙にあったために宇宙を創造したと思われているが実はそうではない、みたいな位置付けになっていてバラモン教の世界観全体を仏教の見ている世界のごく一部だ、みたいに持っていっている分けである。仏教では従ってこの輪廻の輪の中で真の涅槃を得ることはできないと考え、この輪廻の輪から抜け出すこと(解脱)によって真の涅槃を得られる、と考えたのだなと理解した。
だから仏教の多宗派との宗教論議はつまりは「相手の主張する世界と理想はすでにこちらが織り込み済み」というより包括的な世界観・宇宙観を語るという形のマウントになっている分けである。
この辺りはキリスト教とは違うなと思ったのだが、キリスト教は神の教えをより純化していく方向で考えていて、それに合わないものを異端・異教・邪教と考えていく方向で議論し、それをギリシャ哲学やスコラ学を引用してより精緻な方向で議論していくのが特徴で、その辺はユダヤ教やイスラム教などの一神教の啓示宗教は基本的にその方向だなと思う。仏教のやり方では相手を知らないと相手にマウントを取れないという弱点があるが、キリスト教はよらば斬るというかバシバシ相手を切り捨てていけばいい感じがし、安土宗論などで織田信長に気に入られたりしたのもまあそういうところだったのかなと思う。
このやり方は現代のリベラルやポリティカルコレクトネス、フェミニズムやLGBT運動のやり方などにも基本的に受け継がれている感じがする。それを跳ね返す側が基本的に相手の出方を見つつその矛盾を突く、みたいな感じになっているのは包含マウント戦術の仏教的な方向性に似ている感じはする。ブッダが戦国時代の日本に生きていたらキリスト教の宣教師たちに対してどのような議論をしただろうか、などと想像してみたりするが、輪廻転生的世界観や業報思想を前提としたインド的思想風土の上に立って思想を構築したブッダがどのように全く違う前提の宗教と対峙したか、ということはまあ想像しかできない、というか見当もつかないのだけど。
話は本自体の感想からだいぶ離れてしまっているのだが、読んだのは164/221ページまで。こういう本は本当に読んでいてあっちの世界に行きがちなのでいろいろとそういう準備と後始末をしながら読まないといけないなと改めて思った。
あっちの世界といえば「ダンジョン飯」も相当ぶっ飛んだ世界観が展開していて、この世に戻れるのかとやや危惧しながら読んでいたのだが、この怪しげな世界全体を「食べる」という非常に現実的な、というか「地に足のついた」行為によって乗り切るという方向に持っていったのはこれはとても巧みというか、天才の所業だと思った。
最近読んだ何かのマンガでも世界観がどこにいってしまうのか大変だなと思ったりしていたのが、この作品では「食べる」という一つの行為の強さというか現実性の最も高い行為によって世界としっかり繋がっているところが改めて示され、本当によくできた作品だなと思った。
「食べる」ということが浮世離れした妄想とこの世とのジャンクションというかジョイントになるという「手がかり」みたいなものとして書かれている作品はおそらくはたくさんあって、「特に物語の展開に関係なくても食事の場面を描く」という作品は割とある。最初に思いついたのが「マロニエ王国の七人の騎士」の最近の展開だが、「ハラペコ」と「コレット」との「食べ物が豊富な国」でのくだりは「最初に食べさせてくれたもの」が異形のものから自分の姿に戻るための鍵になる存在になっていて、「食べるという行為の神話性」みたいなことを考えたりしたのだが、「ダンジョン飯」ではさらに一歩進んで「食べるという行為の現実性」が「世界の呪いを解く」みたいな方向になっているのがいいなと思った。
もちろんそれ以外にも、例えば「ONE PIECE」でも強敵に勝利した後では必ず「麦わらの一味」は「共に戦った仲間」と「宴(うたげ)」を開いて食べに食べまくり、飲みに飲みまくるわけで、その生の欲望の解放ぶりが一つのトレードマークみたいになっている。「正反対な君と僕」でも「7組が麦わらの一味みたいな宴をしてる」とか言われていて、どういうものかすぐわかるところが面白いなと思った。
これもまだ最後まで読んでないのだが、(13巻は読了、14巻は58/178+おまけ)最後まで読んだらまた時間のある時に最初から読み返してみたいと思う。
イスラエル軍がガザ地区で脱出したか置き去りにされたかの理由で白旗を掲げ丸腰であることを示しながら歩いてきた人質の男性三人を射殺したことを認めたというニュース、これ自体はイスラエル軍の現状を象徴する大きな問題を示してもいるのだが、逆にいえばそういうことを「やってしまった」ことをイスラエル軍はちゃんと公開できる組織だった、ということを示してはいるわけだ。
ガザにおけるイスラエル軍のひどい戦いぶりには世界から批判が集まっているが、こういうことは例えばロシアなら公開しないだろうし、しても何かのプロパガンダの一環だったりするだろうと思われる。
これは、同じ侵略的な戦争指導者であると言っても、ネタニヤフの酷さはプーチンの酷さとは違うということで、それはつまりイスラエルには民主制=民主主義が生きているということだろう。ネタニヤフは民主制の中で右派の支持を受けつつギリギリのところで酷いことをやる。
イスラエル兵、つまりイスラエルの若者たちがパレスチナ人に対してひどいことをやれるということそれ自体は「教育の成果」であり、それ自体に大きな問題はあるのだが、IDF(イスラエル軍)が人質の死を殺したことを公表するのは彼らがやっていることを正義だと考えているからで、過ちを隠蔽することもまた正義に反するから、実行しているのだろう。
そこが民主主義国のイスラエルと権威主義国のロシアの違いであり、逆に言えば、「民主主義国家がどんなに酷いことをやれるのか」ということをイスラエルはまざまざと見せてくれているということにもなるわけである。破壊したガザの学校でイスラエルの男性兵士が女性兵士にプロポーズして部隊みんなで大盛り上がり、みたいなことは自分たちが正義の軍だと考えていなければできない。こんなに殺戮して正義もへったくれもあるものかと思うが、誤った認識の上に立つ民主主義の恐ろしさみたいなものがそこにあるのだろうと思う。
イスラエルは「民主主義国家」であり、ガザやパレスチナは十分に民主主義的でないのは確かであって、だからアメリカはイスラエルを支持している、支持できるわけだけど、「民主主義国家の酷さ」みたいなものを見せつけられるのは、アメリカにとっては「自分を鏡で見せられている」ようなものだろうと思う。
話は日本のことになるが、もともと明治の元勲たちが明治維新を起こし日本を近代国家に作り替え、議会制度を導入して国民国家・民主主義的議会政治を導入しようとしてのは、アメリカという未知の国との衝撃的な邂逅が大きかったのだと思う。
日本は旧大陸の東の端の国であるから、中国やその西のインド、さらにその先のヨーロッパなどから見れば非常に遠い場所にあるわけで、地球が丸くてもどちらからきても遠いから、その影響はこちらには及ばないと思っていたのが、突如として太平洋の向こう側の新大陸に巨大な新興国家が現れ(アメリカがカリフォルニアを獲得したのは1848年、同時にゴールドラッシュが起こり一気に開発が進む。ペリー来航はその5年後)、太平洋を西回りできたら旧大陸で最初の標的になるのは日本だ、という事実に気がついた時は驚愕しただろうと思う。イギリスやロシアのような君主制国家に対しては抱かない種類の恐れと関心をフランスとは違って最初から共和制国家であるアメリカに対しては持っただろうと思う。
アメリカは南北戦争に忙殺されその後のアジアへの進出は欧州列強には遅れをとり、アメリカへの関心も薄れることになって、自由党もアメリカよりはフランス流の自由主義を摂取していくことになることで、アメリカという国への理解が遅れたということは残念だったのだが、日本はアメリカとの戦争と敗北、占領と従属的同盟という関係の中でアメリカと付き合ってはいくが、歴史や学問理解においてはなぜかヨーロッパが優先され、政治的・経済的関係のみ深まっていくという跛行的な関係の深まりがあった。現在ではだいぶアメリカの歴史やアメリカの国としての特色のようなものへの関心や理解も深まってきたとは思うが、まだまだ不十分であるようには思う。
日本の保守はどうしてもアジア主義的というか、西力東漸史観の中で培われた「欧米に追いつき追い越すべき日本・アジア」みたいな目標であり敵である欧米という構図から逃れるのが難しいのだが、逆に機会主義的に「とにかく英米と仲良くやってけばOK」のようなやや軽薄な動きもあるわけで、実際にはもっとリアルな現実理解の必要性は、冷戦構造崩壊後の複雑な世界情勢の中でさらに高まっているというべきだろう。
「民主主義なら全てOK」みたいな見方も間違っているわけで、「権威主義・独裁主義のロシアや中国の蛮行」は「彼らには民主主義が足りない」と言ってれば済んだところを「民主主義のイスラエル(そして影に隠れているがアメリカ)の蛮行」に対しては分析する適当な言葉がないのはある意味政治学の貧困というべきだろうと思う。現代の(国際)政治学はアメリカ中心になっているので、「民主主義国家の蛮行」はアメリカ自身を批判しなければならないからだろう。日本もそれに追随するだけではなくて、新しい言葉を持たなければならないのだなと、改めて思ったのだった。
話題は三つまでと言いながら段落だけでも四つになってしまい、まあなかなか難しいが、今日書いておきたいことのいくつかは書けた。よろしければ(noteの方ですが)「いいね」&「フォロー」をよろしくお願いします。
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