God Save the King/「天下の大勢の政治思想史」を読んでいる:中川漁村と長井雅楽/儒教における朋党と議会制における政党/木戸孝允の郡県への情熱
10月28日(金)晴れ
今朝もよく晴れているが、昨日一昨日ほどの冷え込みではない。とはいえ、最低気温は2.7度なので暖房はつけている。10月は毎年そうだが、月の初めと終わりの気温の差が激しい。今年は特に秋がさるのが早い感じがする。
車を運転しながら「古楽の楽しみ」をなんとなく聴いていたら聴いた覚えのあるメロディーになり、なんだっけと思ったら「God save the King」であることに気づいた。あれ、と思って曲名を見るとクープランの「ルイ18世あるいはフランスの幸福の再来」という曲だということが分かったのだが、英国国歌の方がこちらから引用したのかと思ったらこちらは1745年ごろからある曲で作曲者不明だということが分かって、このクープランもいわゆる大クープランではなく一族のジェルヴェ・フランソワ・クープランだということが分かった。ということはこちらの方が引用だということになるのだろうけど、車を運転したり止めたりしてその度に放送は聞けなくなるので解説をちゃんと聞けなかったからどういう由来で引用したのかはわからなかった。
「天下の大勢の政治思想史」を読んでいる。昨日読めたのは第4章から第6章。取り上げられている主人公は堀田正睦、勝海舟、木戸孝允だ。堀田正睦は代表的な開明派の大名で、阿部正弘に続いて老中首座になり、開国政策を推進し、その論理には頼山陽の「天下の大勢」論が使われていたというのは面白いと思った。ということはつまり、頼山陽は幕府の開国派に主に援用されていたということになる。
この開国論が「決断力のある君主」を求める議論につながり、結局一橋慶喜を将軍後嗣にという一橋派の主張と近づくが、慶喜自身というよりはその父である水戸斉昭の存在が展開をややこしくし、大奥から総スカンを食らっていた斉昭の影響力を嫌って南紀派が勝利し大老に就任した井伊直弼によって堀田正睦は排除されることになる。ただ、井伊は開国政策そのものは継承したわけで、それが開明派の幕府官僚と幕府の「外国に迎合的な」姿勢が日本を危うくするという尊王攘夷派の対立を招くということになる。
尊攘派の拠って立つ尊皇論も攘夷論も元々は朱子学の理の思想からきているわけで、山陽の勢の思想とは違うわけだが、とりわけその議論の中心は外国の脅迫によって武の政府である幕府が節を屈したという「傷ついたメンツ」「若い武士たちの傷ついたプライド」によるものと言う説明は納得できるものがあった。
彦根井伊藩はもともと阿部正弘の諮問の時にただ一藩開国を主張しているが、その元になったのは頼山陽の弟子・中川漁村の論であり、それを井伊直弼が採用したというのはどこかで読んだ覚えはあったが再確認できてよかった。全体に、幕末の政治思想しにおける頼山陽の影響というのはきちんと理解していなかったので、この本はとても参考になっている。
中川漁村の「攘夷は不可、開国も不可、あるのは自ら世界に貿易船を派遣して交易を行うことのみ」という主張は、公武合体全盛時の長州藩・長井雅楽の主張に近いように思うが、調べてみてもこの両者の関係はよくわからなかった。長井の議論は一時幕閣も朝廷も風靡したがやがて朝廷は尊王攘夷論にとって代わられるわけで、この辺も事実そうだったという事は知っているがなぜそうなったのかについてはよくわからない。当然ながらこの主張はのちに岩崎の三菱など海運業や商社の活動につながっていくわけだから、そうした面から見ると漁村の論がその嚆矢だったということになるのかなと思った。ただ後への影響があったのかどうかはわからないが。
もう一つ、尊攘論の一つの議論が「武士の体面」に発するというのは理解はできるのだが、これは鎌倉武士の時代から続く「舐められた殺す」的なものと同様なのか、この辺は思想史なのか心性史なのかよくわからないが、「武士とは何か」というような問題にも関わってくるのだろうなと思った。
第5章では再び丸山眞男の「古層」論に触れているが、ここまで読んできての感想としては、丸山の議論は昭和初期の状況を不当に過去に投影して形成されたものだったのではないかという気がしてきている。しかしまあこの辺は最後まで読んでからまた考えてみるべきことなのだろうと思う。
ここ前の感想として思うのは、開国が実行される以前には水戸斉昭が「決断の君主」として攘夷派が頼山陽の論理を援用していたこともあったけれども、開国後は一貫して幕府側の開国を正当化する論理として山陽の「大勢論」が使われているのだなと思う。
しかし、幕府が弱体化し、井伊の強権政治以来幕府との対立傾向を強めた薩長が、さまざまな事件を経てイギリスと接近する中で朝廷や薩長にとっての主敵が外国ではなく幕府に変わったことによって「天下の大勢論」≒「開国論」が共通認識になったと考えていいのかなと思った。薩長や志士たちが尊攘から倒幕へと議論を転換する際のクッションとして、「天下の大勢」論や「決断の君主」論が使われた面もあるのではないかと思ったりもする。
勝海舟について読んでいると明治期に至っても「決断の君主」を待ち続けている感があり、ほとんどゴドーではないかという感があるのだが、明治政府=官僚批判として「自分たちだけが正しいと思い反対論者を否定するだけの姿勢」について言っていて、それでは反対派の「勢い」を煽るだけだ、という批判もしていて、この辺りは現代のポリコレやフェミニズムの論者がアンチの勢いに火をつけて炎上していることを思わせ、人間は進歩しないなと思ったりしたのだった。
第6章の木戸孝允における議論で考えたのは「朋党」と「政党」の関係、「郡県か封建か」の議論の二つについてだ。
これは先だって読んでいた「山県有朋」についてもそうなのだが、基本的に儒教では「朋党」は悪であり、公義・公論・公道といった朋党に偏しない姿勢が良しとされるわけで、山縣有朋の原理的な政党嫌いについても、恐らくはそうした朋党否定論から出ているのではないかと思った。
木戸の公義・公論についても「天下の大勢」を理解すれば自ずと同意できる「はず」であるのに理解するものが少ない、という慨嘆と憤懣が彼の寿命を縮めたんだろうなと思ったりした。
実際のところ、「君子」が「良民」を支配し善導するという儒教の世界観とありのままの利害をぶつけ合い多数派を形成し合う議会政治の仕組みというのは根本的に相反するわけで、私自身もそうだが思想・信条・政策・利害全てにおいて多数派工作で進める議会政治・政党政治よりも天下公道の議論の方がより良いのではないか、という考えが、おそらく日本人にはいまだに強くあると思う。その辺りが、「正しい議論」で「前衛党が国家を指導する」社会主義や共産主義への親和性につながってしまうのだろうと思う。ただ我々は江戸時代とは違い「正義は相対的なものである」ということはより理解できるようにはなっているわけで、正義そのものも多数派工作によって検討・議決していくしかないという民主政治の方が「より少なく悪い」体制であるということなんだろうと改めて思ったりした。
しかし、議会においては鋭く対立するが、一度議会を離れたら親しく談笑する、みたいなことがイギリスでは普通なのに、日本ではなかなかできないというのがそういうある種の「演技としての対立」みたいなことに対する後ろめたさが日本ではあるのだろうなという気がする。意見は違うがお互いに認め合い、尊重し合うというようなことが日本ではやりにくいのは、Twitterなどでもくだらない個人攻撃とかが多いことからもよくわかるし、そういう意味では「民主主義的に成熟していない」というのはこういうことだろうなと思う。
実際この辺りのことは生前の渡部昇一も書いていたが、若い頃は政治信条が違ってもプライベートでは関係なかったが、最近は政治信条が違うと古い友人でも気持ちが離れていくようになったと言っていて、欧米学術の泰斗であってもそうであるならなかなか一般の日本人には難しいよなと思ったりする。ただ、本来の議会政治は野田佳彦元首相の安倍元首相追悼演説のような、党派を超えての人間的共感みたいなものがあればこそ成り立つ面もあるはずなので、この辺のところは絵に描いた餅を少しでも本当の餅にしていくような努力も必要なのだろうと思う。
話を戻すと、木戸は理想主義者で大久保は現実主義者だということはよく言われるが、版籍奉還や廃藩置県をめぐる「封建か郡県(=中央集権化)か」の議論の中で「当然郡県しかない」という木戸の判断がなかなか受け入れられなかったのが徐々に周りを動かし実現していく過程がわかりやすく、迫力を感じた。この辺りは急進的な郡県論者である伊藤博文と長州藩の代表者でもある木戸との役割分担的なところも面白いなと思った。
堀田正睦の開国論の時点ではまだ説得力を持たなかった「天下の大勢」論がこの時期になると広く受け入れられるようになっているという変化も面白いと思うし、「徳川慶喜は大政奉還によって政権は返還したが軍権は返さなかったので討伐の対象になった」という議論が廃藩置県を後押ししたというのも面白いと思った。当然ながらその背後には西郷や薩長土三藩から差し出された御親兵の存在もあったということになるわけだが。
こういう政治思想の展開と浸透も実際の政治過程と合わせて議論していくと、説得力が違うなと改めて思ったのだった。