米価高騰と米の先物取引開始の関係は/ジャンプからのエロ企画の追放とキャンセルカルチャー/「読書にハマっていた」が「教室では読まなかった」子ども時代の思い出
2月15日(土)晴れ
今朝の最低気温はマイナス4.1度。しかしいろいろやっている間にもう2月も半分終わった。「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」とよくいうが、2月ももう半分逃げてしまったということか。とりあえずやるべきことは頑張ってはいるのだが、まだまだできているとはいえない状況だなと思う。
ただ実際のところ、頑張りすぎてもダメなので、頑張ったあとはゆっくり休んで回復しないといけないのだけど、いつまで経ってもそれが下手だなとは思う。まあそんなこと言ってられないのでしっかり回復しないといけないのだが。
最近の話題で考えたことをいくつか。コメの値段が高止まりしていて、政府はついに備蓄米21万トンを放出したということなのだが、それで市場がどう反応するかは未知数ということだった。自分が昔覚えた数字は一年の米の生産量は1000万トンだったのでそれに比べたら微々たるもののように思ったが、2015年の生産量は780万トン、2割以上減っているのでそれなりに大きな量だということにはなるかなと思った。
しかしそれにしても昔は米価はもっと需給をストレートに反映していたし、去年の新米が出たら値段が落ち着くというのはその通りだろうと思っていたのだけど、なぜ動かないのだろうかと思っていたのだけど、昨日Twitterを見ていて昨年の夏から「米の先物取引」が始まった、ということを知ってああそういうことだったのかと納得した。
株価にしろ米価(商品先物)にしろ、素人が手を出したら空売りをするのは怖いから基本的に高い価格であるほどありがたい、ということになる。株価がある程度以上下がらないのは、素人を株式市場から去らせないためにある程度の政府からの買い圧力があるからだと思うのだけど、株式は食べるものではないから高くても庶民が困ることはないが、米は食べるものだから高くなると一般の人たちが困る。
しかし当然ながら先物取引が行われたら投機筋が参入してくるわけで、その膨大な資金が米の需給とは別に価格の吊り上げを行うということは十分あり得るわけで、だから米価が上がっているのだろうと思った。
農家が売り渡す価格がそんなに上がっているわけではないのに小売りが買い入れる価格は相当上がっているわけだから、問題はその間に介在する業者ということになるけれども、先物取引が投機化してしまうと極端な米価高騰や米の退蔵が行われることになり、食糧事情に大きく影響してしまうだろう。米作農家も最近の諸物価や特に燃料価格の高騰で苦しめられている中で米価は上がらず、経営は苦しいのに消費者は高い米を買わされる。米が高くてもそれが生産者に渡っているならまだ仕方ないとは思えるが、投機筋が儲けているだけならちょっと納得できないだろう。
先物取引は値動きの激しい商品を将来の期日にあらかじめ決めた値段で取引することなので、取り扱う業者にとってはリスクヘッジになるという側面があり、そういう意味で価格の安定化に資するところはあるわけなのだけど、目先のきく人は儲かるけど誠実に米を作ったり小売りしたりしている人たちに現状あまりメリットがあるとはいえないだろう。こうした取引は元々世界に先駆けて江戸時代に大阪の堂島で米相場が始まったとされているわけで、つまり今回の先物取引の復活は戦前期以前の米相場の復活でもあるわけである。
しかし総力戦体制の中でできた食糧管理制度以来、米は非常に国家統制色の強い作物であり続けたので、長い間低価格で安定し、それが進み続ける米離れを一定食い止めていた面もあると思う。コメづくり農家と消費者の双方にとってより良い制度がなんなのか、どう結論づけるべきかは難しいが、少なくとも今回の米価高騰に先物取引が始まったという要素は大きいと思うし、それなのに報道にはほとんど出てこないので、書いておこうと思ったわけである。
「少年ジャンプ」11号の「WITCH WATCH」189話で「少年ジャンプにはもうエロが中心と見られる企画は掲載できない」という話が取り上げられていて、実際に編集者の手によって「湯気が足された」例として矢吹健太朗さんの「To LOVEる」のお風呂の場面が掲載されていて(作家名作品名は明示されてないが見る人が見たらすぐわかる)、矢吹さんはそれを見た時「「火事か!?」と言って膝から崩れ落ちた」ということだったのだけど、Wikipediaによればこれは2007年のことだったようだ。
この話を読んだであろう矢吹さんがツイートで
あの日の無念がすーっと浄化された気がする
— 矢吹健太朗 Info (@yabuki_info) February 12, 2025
今週号のウィッチウォッチ。
って事で自分流でニコ✨ pic.twitter.com/uXK1Bzna4F
と言っていて、単行本を見返しの作者コメントにもあったけれども、やはり矢吹さんは描写にはこだわりを持ってい他のだなということがわかる。
実際、我々が子供の頃の永井豪やとりいかずよしなどの作品では女性の裸の上半身が描かれていて乳首がないなどということはなかったので、漫画読みを復活してからそういう描写(乳首が描かれない胸)が多いことに驚いてなんでこんな不自然なことを、と思っていたのだけど実は相当な経緯があったのだなということがわかる。
2016年−20年に連載されていた「ゆらぎ荘の幽奈さん」もエロ要素が強い作品だったがそういう規定は遵守はしていたのだけど、一度「画面には描かれていないが紙面を透かしてみたら裏に描かれたものと合わせて乳首に見える」というような手の込んだ描写があって、私は一見では気が付かなかったがTwitterで話題になっていたのでなるほどと思った、ということがあった。
今話題になっている作品でも、2019年に始まった「2.5次元の誘惑(リリサ)」(ジャンププラスだが)で当初はかなり過激な表現があったのが現在ではその辺りも修正版しか見られなくなっているし、話の展開も大きく変わってコスプレをテーマにしたある種のスポ根者になっていて、それはそれで大変面白いしテーマも深いので方向転換が成功した例だとは思うのだが、そこで修正せざるを得なくなった2019年から2020年あたりにかけてがおそらくは最後の分水嶺だったのかもしれない。
同じくジャンププラスでもエロ要素の強かった「終末のハーレム」が名前を伏せて連載されたりになったのも大体同じ時期だった気がする。
これはフェミニズムによるキャンセルカルチャーが激しくなった時期と期をいつにしているし、「温泉むすめ」や「宇崎ちゃんは遊びたい!」が「燃やされた」のもその延長線上の時期だった。
そうした作品の熱心な読者だった暇空茜さんがフェミニストの支援団体の会計の不備を住民監査請求しそれが通るなどしたことから流れは変わり始めたが、今回のトランプ政権の成立やwoke的な動きを支援するUSAIDの活動を停止させたりしたことがどのように影響していくかはわからないけれども、少なくともwoke方面からの圧力は今後減少する可能性はあるだろうと思った。
ただそれが直ちに「少年マンガにおけるエロ要素の強い企画の復活」に繋がるかどうかはなんともいえない。ただいずれにしても政治的要素の強い問題であることは確かである。
元々左翼職の強い人たちが多かったマンガや表現に関する業界が今ではほとんど自民党支持になっているのはフェミニズムの人たちが左翼系の政党をある意味乗っ取って表現弾圧に走るようになってきたためだが、「裸表現がどこまで許されるか」というのは実に政治の最前線の一つではあるのだなと改めて思ったりしたわけである。
ちなみに今週の「にごリリ」は驚きの展開で、コメント欄は大騒ぎだった。エロではない。
浦和高校の通過儀礼的な新入生の校歌指導が問題になっていたが、「エロへの免疫」というのもそうだけど、大人になる過程で世の中のいろいろなものに触れるという機会が大人によって取り上げられていくことが本当に良いのか、考えさせられる面は多いなとは思う。
文部省の読書指導の推進について、「でも学校現場では先生は休み時間に一人で本を読んでいる子は嫌いだよね」というツイートがあり、まあそうなんだよなと思いながら、一日中本を読んでいた記憶が強い自分の子供時代、小中学生の時代のことをちょっと振り返った。
私は小学校2年の夏休みまでは東京近郊にいて、幼稚園の時にはヤマハ音楽教室とお絵かきの教室、小学校に入ってからはお絵描きは続けて英語教室にも通うようになった。ヤマハは自分以外が全員女子だったのでなんか面白くないなと思ったのがやめたきっかけだが、英語教室もやはりほとんど女子だった気がする。ただ教室が隣の駅だったので、土曜日だったと思うが教室の日には十円もらって切符を買って電車に乗って教室に通うのが嬉しかったことは覚えている。まあ音楽も続ければよかったと後になってからは思ったのだけど。
小学校2年で転校してからは放課後の時間にやることがなく、元々好きだった本を読むようになり、全校二百人足らずの小さな小学校の小さな図書室にある本を読破するくらいの勢いで本を読みまくっていた。先生が見回りにきても「帰れよ」というだけで見逃してくれたので読み続けていたら外が暗くなってきて、帰ろうと思ったら玄関が閉まっていて守衛さんだったかに頼んで外に出してもらったことがあった。読書に親しむようになったきっかけは、自分にとっては「転校」と「習い事がなくなった」ことが大きな要因だったと思う。
そんな本の虫なら休み時間も本ばかり読んでいたかというとそんなことは全然なくて、10分休みには少しでも遊ぼうと走って校庭に出て行ったし、友達と戯れたり縄跳びをしたり、普通に子供らしく遊んでいた。授業中も結構手を上げて発言していたし、とにかくじっとしていなかったことだけは確かである。
まあ基本的に私は「おしゃべり」であって、こんなふうに毎日ブログ/noteを更新しているのも本質的に黙っていられないのにでも話す相手もいないので書くことでおしゃべり欲を発散しているという面が大きいのだなと思う。
だから別に本は読まなくてもいられないわけではないし、やることをすぐ見つけて、というか逆にいえばすぐ「いらんことをして怒られる」子どもだったし怪我も多かったのだけど、好きだから本は読んでいた。歴史や物語やドキュメンタリーやそのほか何でも読んでいたので、その当時の知識や記憶が今でもどこかしらで役に立っていることは大きいと思う。
で、「教室で一人で本を読んでいる生徒」の話に戻るのだが、私は本を読みまくっていたけど「教室で一人で本を読んでいる」ことはほぼなかったのである。確かに自分が教員になってからはそういう生徒を見たが(高校生だからということもあるが)、みんながたくさんいるのだから本なんか後で読めばいいのに、とどこかで感じていた気はする。
で、なぜ私がそういう行動、「教室で一人で本を読む」ことがほとんどなかったかというと、「自分の本を持っていなかった」からなんだということに思い当たった。
教室で一人で本を読んでいる生徒が読んでいる本は、図書館で借りた本である可能性もあるが、ほぼ自分の本だろう。自分で買った、あるいは買ってもらった本を読むとしたら放課後に習い事や塾があるなら読む時間は学校の休み時間しかないかもしれない。私は大学合格まで塾に行ったことはほぼないし習い事もその後はやっていないので放課後はまるまる空いている。本を読むのも楽しいが友達と話すのも楽しいから、その時しかできないことを優先する、という感じだったのだなと思う。
つまり基本的に私は「図書館で借りた本しか読んでなかった」わけである。父の本棚から大人の読む本を勝手に抜き出して読んでたりはしていて、それがまた読書体験の種にはなっているのだが、それらは文学とかではなくて歴史や社会系の本が多かった。自分の子供の頃の読書体験は、ほとんど自分のものでない本によって形作られていたのだ、ということがわかった。
借りた本はいつか返さなければならないので、とにかく読む。面白さを感じられなかった本を除いて、期間内に読みきれなかった本はほぼない。大学に行ってから自分のお金で本を買うようになると図書館はだんだん補助的な存在になってきて、今では本棚が20くらいはあるくらいには本は持っている(マンガも多いが)のだが、「本を持たない」ことで「本をとにかく読む力」が養われる面は確かにあったなと思う。
高校まで、「自分の本」と言える本は、教科書と参考書だけだった気がする。だから教科書や参考書、特に国語便覧などは愛読した。
まあそんな感じだったので、本を読むことでマイナスに評価されるということはほとんどなかったので、「教室で一人で本を読んでいる子」として先生に疎んじられた、ということが言ってることはわかるけど体感的には理解できなかったのである。
今では子供の世界にスマホやゲームが入り込んできているので私の子供時代とはかなり違うとは思うのだけど、私の子供時代も誰かの家に集まってその子のお兄さんが買い貯めていたマンガ雑誌をみんながそれぞれに土間に座って読み続ける、みたいなこともよくあったから、そういう意味ではあまり変わらないかもしれない。でも違うのは、とにかく「自分のものが少なかった」ことだと思う。だからいろいろなものに常に「飢え」があったようには思う。おもちゃとかは持っていないわけでもなかったが、お年玉で買ったものを壊れるまで遊ぶ、くらいだった気がする。今思い出してみると不思議だが、子供の頃はお年玉で本を買おうとは思わなかった。いえば親も買ってくれただろうとは思うが、図書館で借りられるからいいや、というのが大きかった気がする。
今の子供の置かれている環境とはおそらく結構違うので、子供の読書習慣ということについてはなかなかどういうものがいいということを言うのは難しいのだけど、まあそれぞれの子どもが元々の素質を発揮できるような下地が子ども時代に作れるといいなと言うくらいのことしか言えないなとは思う。
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