サッカー漫画「TIEMPO」が面白い:埼玉県のスポーツと漫画の関係/「国家神道」:近代日本が背負った政治と宗教あるいは思想の宿命
4月2日(日)晴れ
昨夜は寝る前にこのところ少し気になっていた「TIEMPO」を読みかけのところから読み直して、最初に読んだ時にはあまり気づかなかった細かいところも結構読めてきていることに気がついた。ただ疲れていたせいか寝落ちしてしまったので朝起きてからまた読み始めた。
スポーツマンガというのは、どういうわけか埼玉県が舞台になることが多い。古くは「エースをねらえ!」の県立東校だが、これは浦和西高校がモデルだと言われている。最近でも「おおきく振りかぶって」は西浦高校だが、これも浦和西だ。今読んでいる「TIEMPO」は春日高校だが、強大なライバルとして「西浦高校」が出てくる。今、浦和西高校はサッカーが強いようなので、これもまたそうだろう。一つの高校でいくつものマンガのモデルになる学校が出てくるのはすごいなと思う。
埼玉県というだけでいえば、これはスポーツとは少し違うがバレエのマンガ、「テレプシコーラ」も埼玉県が舞台だった。マンガを書く人にとって埼玉を舞台にしやすいのか、それとも埼玉出身の人がマンガ家になることが多いのか、両方の要素を持ち合わせている高校が埼玉にあるということなのか、面白いものだなと思う。
それにしても「TIEMPO」は個性的なマンガで、この面白さをどう表現したらいいのかよくわからない。基本は熱血スポ根だと言っていいのだと思うが、個性の描きわけがとても面白いし、理論的な部分、メンタルな部分、精神論の部分、キャラクターの持つ魅力が全体を引っ張る部分、信頼感、そうしたものの多くをよく表現している。
この作品は最初はヤングジャンプ本誌で連載されていたのだが、途中からヤングジャンプのウェブでの連載に移った。最近はそういうケースが増えているが、ウェブの方がより自由に展開したり、連載ペースを落としたりすることができるということをメリットにしていることが多いのだろうなと思う。ウェブの漫画といえばジャンプ+が面白いけれども、同じ集英社でもヤンジャンの方はもう一つ見にくい感じがあって、これは過去作品をウェブで見られるようにするという独自の取り組みがあって作品数が膨大になっているということなのだろうと思う。ジャンプは本誌は本誌、アプリはアプリと割り切ってる感があるが、ヤンジャンはその両方を狙っていて、読む側も慣れるのに少し時間はかかる感じがあるが、全体的にはこちらの方が主流なんだろうと思う。逆にいえば作品の見せ方を限定してきているジャンプラの先進性みたいなものが受けている理由なのかもしれない。連載している人にとっては熾烈な面はあると思うけれども。
「国家神道」。廃仏毀釈がひと段落して仏教界の勢力を削いだ後、国民教化政策は近代学校教育の樹立の使命を担った文部省と「大教」の宣布を担う教部省の二本立てになるけれども、教部省というのは影が薄いし、どういう形でどういう役割を担っていたのか、あるいは担おうとしていたのかよくわからなかった。
教部省は明治4年にできたが、最初の政策はそれまでの宣教使に代わって教導職という役割を作り、彼らには「三条の教則」という教導の原則を与えた。その内容は「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴朝旨遵守」だった。この前段階からすでに仏教側の巻き返しが始まっていて、教部省の方針は「神道・仏教・民間宗教をあげて国民教化に取り組む」というものになっていた。
これは読んでいて一体何がしたいのか訳がわからないと思ったのだが、つまりは明治新政府はいかににして基本的に安定した前近代社会に生きてきたいわば江戸時代人である「民衆」を「国民」に仕立て上げていくかという大きな課題を持っていたということで、それについての方針が二転三転してブレブレのまま進んでいったということなのだろうと思う。
学校教育については新しい世代の国民である子供たちを一から教育することになるから大きな可能性があった訳だし、学校教育のモデルは欧米諸国の義務教育制度という見習うべき見本があった。もちろんこれはこれで大きな抵抗があり、働き手であった子供を学校に通わせるということには大きな反発があって、「学校反対一揆」が各地で起こったりしている。この辺りは同じように、いやそれ以上の働き手である若者を動員する徴兵制度と同じ反発が、民衆の間にはあったということだろう。しかしこれはよく知られている通り、大きな成果を上げていくことになった。
一方大人を対象とした教部省の国民強化策はどうだったか。江戸時代末期にあれだけ大きな力になった平田派の復古神道の動員力はなかなか発揮されたとはいえないし、恐らくは一気に実現してしまった「王政復古」と仏教側への復讐、「廃仏毀釈」が済んでしまうと、そのエネルギーは一気に減退したように思われる。これは幕末には大きな期待を込めて援助していた薩長などの討幕諸藩が新政府を組織することになって、エネルギーの方向性が目的達成のためのある種の宗教的情熱から新国家建設のための実務的問題への対応へと大きく変化したことがあるのだろうと思う。
明治国家の建設の初期段階というのはあまりに紆余曲折が多く、ある意味混乱した状態がかなり続く訳だが、その中で様々なベクトルが生まれては消え、あるいはか弱いベクトルが急激に成長して大きな流れになったりして、我々は後からそれがまるでそうなるかのような方向性を最初から持っていたようにおもいがちだけれども、うまくいかなかったことも本当は多くあるわけで、この「教部省」の「大教宣布」という試みも様々な試行錯誤と挫折を繰り返した後に著者のいう「国家神道」体制が出来てきたのは確かだ。
結局のところ、近代国民国家に必要な国民意識をどのように確立していくかが大きな問題になっていたわけだけど、その根本を「宗教」に置こうとしたのは、欧米国家がキリスト教をその拠り所にしているということを認識していたからであって、その試みが「大教」を新しい日本の国民宗教にしようということだったわけだ。
しかし近代化を目指す国家が新しい宗教を国家が作ろうとした試みというのは、全く違う二つのベクトルを同時に実現しようとしていることになるわけで、政府の軸足がどんどん近代化に向いていく中で、宗教的・思想的なベクトルはその近代化=西欧化のスピードを緩めたりやや方向を変えたりする程度の役割しか最終的には持ち得なかったと考えることはできる。
明治政府も最終的にはその方向性の誤りに気づいて宗教による国民教化ではなく教育による強化を主軸とするようになり、ただその国民意識の確立というベクトルのためにのみ宗教的な要素を国家権力という政治意思によって強要することになったということなのだろう。
いわば政治的な意思と宗教界の意思はお互いに利用し合う関係だったともいえ、基本的には国家の側がずっと優位にあったとは言えるけれども、昭和初期のある種のファナティックな現象はその宗教側からの反撃ともいえ、ある意味日本という国家の存立に関わる軸のようなものの宿命的な動揺性がそこにあったと言えるのかもしれないと思う。この辺りのことはもっと考えてみたい。
この時代の政治過程は何度か追いかけたことがあるが、こういう宗教・思想政策的な問題についてはあまり追いかけてきていないのではっきり認識していないところが多い。今回読みながら色々理解したことや感じたことはあるので、改めて考えてみたいと思う。