言葉の「射程」と「精度」
週1でブログ書く宣言してはやくも7ヶ月になろうとしている。年始から3つくらいしか書けてないんじゃないか。気付けばしいたけ占いの2019年下半期も出ちまって、ナンだかなぁという。あ〜あ、ナン食べたいなぁ。
言葉の「射程」と「精度」について考えることが時たまある。1年のあいだに必ずリフレインしてくる。誰が言ったのか、大学の教授か、はたまたどこかの思想家か作家か。20代前半の、それこそ細々と言葉を綴ることが増えたときに影響を受けた“コトバ”だ。
自分の語る言葉は、どれほどの距離飛んでいくことができ、どれくらいの精確さで的を射ることができるのか。それは「いま・ここ」における現在だけでなく、過ぎ去っていく時間のなかで記憶として残っていけるのか。言葉が自分ではない誰かへ「届く」ということ(それは時間や空間を超えていくこともある)への疑問が尽きることはない。
だいたいこのリフレインがやってくるのは、なんだか自分の言葉がしっくりこないなぁと感じることが増えたとき。自分の思考と口から出る言葉が噛み合ってないなぁと感じたり、送り手のことを推し量りすぎてやけに回りくどい言い方(書き方)になったり、それこそ自分の思考と語ることは、本質からズレて流れ弾になってんなぁと思ったり。
定期的に言葉のメンテナンスって必要だなって思う。ライフルが精確に的を射れるよう調整されるように、野球選手がトレーナーとマンツーマンで調整するように。イチローみたいなレーザービーム放つことができればそりゃ本望だけど、まだまだ鍛錬とメンテは必要だ。
それだからこそ、なんかいろいろと書き残していた方がいいなぁ。自分の感受性が生きてるうちに、自分が何に感動して、目ん玉むき出しで語れるかってやつを保存しておかなきゃなぁ。「肥溜め」つくっておいて、土にまける肥料にしなきゃな。そういう循環が気付いたら射程と精度を高めていくんやろうなぁと。
自分の感受性くらい自分で守れ馬鹿者よ、とかなんとか言ってたのは茨木のり子だったか。
わぁーってますよ、そんなこと言われなくても。