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北米における20世紀から現代までのブラックミュージックの歴史5・ヒップホップ編+総括

北米における20世紀から現代までのブラックミュージックの歴史1・ブルース編はこちら

北米における20世紀から現代までのブラックミュージックの歴史2・ゴスペル編はこちら

北米における20世紀から現代までのブラックミュージックの歴史3・ジャズ編はこちら

北米における20世紀から現代までのブラックミュージックの歴史4・R&B(ソウルミュージック)編はこちら

※以下の文章は大学時代の卒論に一部動画等を加えたものです。2013年に書いたものなので一部稚拙且つ古い部分も有るかもしれませんがご容赦ください。

・ヒップホップについて

・発祥
ヒップホップのルーツはジャマイカから始まる。ジャマイカでは元々アメリカのR&Bが人気で、R&Bを流すDJ(ディスクジョッキー。レコード等の音楽媒体を使いイベントで音楽を流す人物)はトラックの荷台に巨大なサウンドシステム(スピーカー、アンプ、レコードプレイヤーを含む音響設備)を積み各地を巡回し、空地に即席の屋外野外ディスコ(人を音楽でダンスを踊らせる場所)を設置するスタイルを生み出した。カリブ海域からの移民が多く住む70年代後半のニューヨークのサウスブロンクス周辺では、そのジャマイカのスタイルのDJが新しい音楽を奏で始める。
この時代を代表し、ヒップホップを作り上げた人物として挙げられるのはクール・ハークグランド・マスター・フラッシュアフリカ・バンバータの3人である(また、グループではシュガーヒル・ギャングが「ラッパーズ・デライト」(Rapper's Delight,1979)のヒットで商業的に一番最初に成功したグループと言われている)。クール・ハークはジャマイカからの移民で70年代半ばからサウンドシステムを使用し近所の娯楽施設や屋外でディスコを開催するようになる。彼はただヒット曲を流すだけでなく、曲のインストゥルメンタル(歌が無い演奏)部分を繰り返す手法、同じレコードを2枚使いブレイクビーツ(曲においてドラムの演奏のみになる場所を繰り返すこと)を反復演奏する手法(通称:メリーゴーランド)、そしてコーク・ラ・ロックという仲間をMC(曲の中で早口言葉=ラップをし、罵り合いや自慢話をする人物)として誘い、後にヒップホップと呼ばれる音楽の原型を築いた。カリブ海のバルバドスからの移民のグランド・マスター・フラッシュクール・ハークからDJを学び、スクラッチング(回転するレコードを手で前後に動かす)の技法を広めたり、既存の曲にドラムマシンを使って打楽器の音を加えた。彼もまたクール・ハークと同じようにザ・フューリアス・ファイブというMC集団を雇い、ヒップホップ初期を代表する曲と言われる「ザ・メッセージ」(The Message, 1982)を発売する。サウスブロンクス出身のアフリカ系アメリカ人、アフリカ・バンバータはDJというよりも、ヒップホップの社会学的意義に大きく貢献したと言われている。

「1973年にズールー・ネイションというDJ、MC、グラフィティアーティスト、ヒップホップダンサーからなる組織を設立し、(途中省略)、ストリートギャングたちの行き場のない怒りやアイデンティティ・クライシスといったものが、ズールー・ネイションに居場所を見いだし、ひいてアフリカに起源を求めるブラック・アイデンティティとしてのヒップホップの意義を浸透させることにもなった。」(當間麗 (2012) 『アメリカン・ポピュラー・ミュージック』DTP出版)

また彼は、ブラックミュージックだけでなくドイツのテクノグループ、クラフトワークをはじめとする様々なジャンルのレコードを使い、ヒップホップのベースとなる曲(=サンプリング素材)の幅を広めた。

・クール・ハークが発明した「メリーゴーラウンド」について

・ヒップホップ黎明期を代表する一曲、グランド・マスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブの「The Message」

・クラフトワークをサンプリングしたアフリカ・バンバータの「Planet Rock」

・ヒップホップ最初のヒットと言われるシュガーヒル・ギャングの「Rapper's Delight」

・発展1
ヒップホップは1980年代半ばから90年代にかけて全盛期を迎えることになる。代表的なミュージシャン達はニューヨークのクイーンズ出身で、ゴールドのアクセサリー、靴ひも無しのアディダスのスニーカーというファッションやスタイルも話題になり、ハードロックバンドのエアロスミスと共演した「ウォーク・ディス・ウェイ」(Walk This Way, 1986)でジャンルの境界を越えた大ヒットを出したラン・DMC、ロックバンドからラップグループに転身し、デビューアルバム「ライセンス・トゥ・イル」(Licensed to Ill, 1986)がヒップホップアルバムとして初めて全米1位を獲得した白人3人組のビースティ・ボーイズ、ニューヨークのロングアイランドで結成され、映画「ドゥ・ザ・ライト・シング」(Do The Right Thing, 1989)の主題歌で社会批判的な内容の「ファイト・ザ・パワー」(Fight The Power, 1989)で知られるパブリック・エネミー、革新的なサウンド作りで知られ、前述のアフリカ・バンバータ同様文化としてのヒップホップを強く意識し、自身の会社の設立、他のミュージシャンのプロデュース、福祉事業や教育といった社会貢献もしたKRS-ワン、攻撃的な内容のヒップホップが多く存在する中で、平和的でユーモアあるラップを展開し、異彩を放ったデ・ラ・ソウル等が挙げられる。映画「クラッシュ・グルーブ」(Krush Groove, 1985)では、ラン・DMCビースティ・ボーイズといった前述のグループが多数登場し、80年代のニューヨークにおける同時期の頃のヒップホップを取り巻く環境が伺える作品だ。

・ジャンルの垣根を超え世界中でヒットしたラン・DMCの「Walk This Way」

・社会的メッセージが込められたパブリック・エネミー「Fight The Power」(和訳付き)

・80年代当時のラップスターが数多く出演した映画「クラッシュ・グルーブ」予告編

・発展2
 ヒップホップのムーブメントは東海岸のニューヨークだけでなく、西海岸のロサンゼルスにも飛び火した。ロサンゼルスでは80年代後半になるにつれて攻撃的な内容の通称ギャングスタラップが一大勢力となる。火付け役になったのはアイス-Tというラッパーで、

「白人警官による黒人への無差別殺人や暴行を訴えるなど内容の過激さからアルバムが発売中止になったり、体制側からは危険視された。一方MC、DJ、ミュージシャン、音楽プロデューサー、俳優、作家など様々な顔をもち、ストリートの支持は篤く、従って影響力にも絶大なものがあった。」(同上)

とされている。また彼は、2013年日本でも公開された、ヒップホップの歴史を紐解くドキュメンタリー映画「アート・オブ・ラップ」(Something From Nothing: The Art Of Rap, 2012)では初監督を務めている。

・映画「カラーズ」の主題歌にもなったアイス-Tの「Colors」

ギャングスタラップを語る上でアイス-Tと共に欠かせないのはカリフォルニア州ロサンゼルス群にあるコンプトンで1986年に結成されたラップグループ、N.W.A.(ニガー・ウィズ・アティテュード)だ。コンプトンは全米でも屈指の犯罪率を誇る貧困地帯で、その環境をバックグラウンドとする彼らの歌詞は非常に過激で、多くのラジオ局がこのグループの曲を放送禁止にした。しかしその過激さが黒人だけでなく郊外に住む白人ティーンエイジャー達の間でも話題になったためか、CDの売上枚数は米国内だけでも1000万枚を超えた。1990年代に突入するとグループは解散するが、メンバーだったドクター・ドレーアイス・キューブは、前者は主に音楽プロデューサー、実業家として、後者はソロのラッパー、俳優としてヒップホップ界を牽引していくことになる。N.W.A.の登場以降、ギャングスタラップは更に過激化し、全米各地へとその勢いは拡散した。そこには

「ただ怒りに理性を見失い暴走するだけのギャングスタラップがあるだけだった。こうして方向性を見失ったギャングスタラップの怒りは東海岸ラップと西海岸ラップの対立に発展し、おそらくその抗争の結果、ロサンゼルスのデス・ロウ・レコード所属の2パックとニューヨークのバッド・ボーイ・レコード所属のノートリアスB.I.G.という2大ラッパーの射殺事件という悲惨な事件を引き起こしてしまう。そしてようやくギャングスタラップは悪夢から目覚め、それと共に急速に終息していくことになった。」(同上)

とされている。2パックに関して言えばギャングスタラッパーらしい歌詞内容、あるいは挑戦的・攻撃的態度でも知られる一方で、黒人の社会的地位向上を目指す政治組織・ブラックパンサーに参加していた母親の下に育ち、芸術学校で演技や文学を学んでいた彼は幼くして妊娠した貧しい少女をテーマにしたデビュー曲「ブレンダズ・ガット・ア・ベイビー」(Brenda’s Got A Baby,1991)、男性によって虐げられている女性への讃歌ともいえる「キープ・ヤ・ヘッド・アップ」(Keep Ya Head Up,1993)といった社会的メッセージの強い楽曲も数多く残しており、その詩人としての才能は詩集「コンクリートに咲いたバラ」(小野木博子訳, 2001年)でも証明されている。また、出演したジャネット・ジャクソン主演の映画「ポエティック・ジャスティス/愛するということ」(Poetic Justice,1993)の撮影を通じて詩人であり、ヒップホップにおけるゴッドマザーとも言われるマヤ・アンジェロウとも交流を深めていた。

・コンプトン出身のN.W.A.の代名詞的曲でもあり、彼らを題材にした映画のタイトルにもなった「Straight Outta Compton」(和訳付き)

・ギャングスタラッパーながらポジティブなメッセージも発していた2パックの「Keep Ya Head Up」(和訳付き)



・その後(90年代中盤以降)
痛ましい事件の後、今日に至るまでヒップホップはR&Bと並ぶかあるいはそれ以上に黒人音楽のメインストリームとして存在している。90年代以降、ヒップホップを牽引する土地はニューヨークやロサンゼルスに限らず、南部のアトランタやヴァージニア、あるいはニューオリンズでもあり、ジャーメイン・デュプリTLCティンバランドミッシー・エリオットジュヴィナイルといったグループ・ラッパーが登場する。R&Bの項目でも登場したヒップホップソウルというスタイルも確立し、80年代や90年代前半以上のごった煮状態が続いている。近年では、N.W.A.と同じコンプトン出身のケンドリック・ラマーが人気・実力共に抜きん出た存在となっており、アルバム「ダム」(Damn,2017)は2018年ヒップホップアルバムとしては初となるピューリッツァー賞の音楽部門を受賞という快挙を成し遂げた。ヒップホップはその攻撃的あるいは暴力的なスタイル・姿勢・歌詞・イメージが時に批判されることも多いが、そういったものは主に黒人達の厳しい現実の反映と言うことも出来る。その背景から、ヒップホップが若い黒人達、そして他の人種の若者にとっても決して綺麗ごとではない「リアルな音楽」として価値を置かれ、魅力的に捉われている理由が分かるかもしれない。

・自分自身を愛することを説いたケンドリック・ラマーの「i」(和訳付き)


まとめ(総括)

20世紀の黒人音楽の歴史をまとめてみよう、と頭の中で軽く思い浮かんだものの、実際に調査をし、それをまとめる作業は楽しくもあり、非常に頭の中を複雑にさせるものだった。どの音楽関係の書籍にも書かれている事だが、1つのジャンルの音楽について1冊の本で全て説明をする時、そのジャンルに関連する全てのキーワードやミュージシャンを載せるわけにはいかないので、時に自分が重要だと感じたり、あるいは個人的に興味を持っているミュージシャンでも都合上省かざるを得ない時がある。あれも載せるべきだ、これも載せるべきだと四苦八苦するうちに時間が過ぎていったのは言うまでもない。 黒人音楽について調べていくうちに感じた事は、全てのジャンルが互いに影響し合い、繋がっているということだ。論文ということでジャンルごとに分けたものの、実際の音楽に触れる時は自由な観点でそれらを解釈していることは多い。その時にこそ音楽を聴く歓びは生まれ、自らの感性に吸収されていく瞬間がとても楽しいと感じる。そのことを論文制作中に改めて知った。好きな映画の一つに、論文の中でも紹介した「ドゥ・ザ・ライト・シング」(Do The Right Thing, 1989)がある。俳優のサミュエル・L・ジャクソン扮するDJが「以下の人々に感謝しよう・・」とレイ・チャールズランDMCジョン・コルトレーンオーティス・レディングマイルス・デイビスルイ・アームストロングスティービー・ワンダー・・・といった論文に登場した偉人達に敬意を表し、「あなた方のおかげで我々は毎日の暮らしに耐えている。」という言葉で締めくくる。そこには悪い意味でのジャンルの隔たりは全く存在せず、「自由」な雰囲気を醸し出している。これこそが、黒人音楽の調査の末見つけた、見つけたかった一つの答えだと信じたい。黒人でない日本人である自分も、彼らの音楽によって支えられている事実をDJが締めくくった言葉から感じた時、その音楽が持つ力に気付かされたのだ。

ありがとうございました!

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