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読書感想文【大河の一滴】五木寛之著
こんにちはコウカワシンです。
今回は、五木寛之(いつき・ひろゆき)さんの著書【大河の一滴】から学ばせていただきました。
本書は、「生きづらい社会を自分らしく生き抜くための処世術」が書かれています。
本書を読んで私なりに解釈した答えといたしましては、「一人一人がきちんと自立し、それなりの共同体感覚を身につけるべき」としました。
それではその所感を述べさせていただきます。
なぜ共同体感覚が必要か?
なぜ共同体感覚が必要かという答えについては次のとおりです。
「人はみな大河の一滴」だから
人間は、たとえ悪人であってもある種の役割を持ち生まれてきているから
人間は、多数の人間と一体感を求めて生きているから
「人はみな大河の一滴」というのは、本文中に数度出てきます。
腹落ちした部分といたしましては、「小さな一滴の水にすぎないけど、大きな水の流れを形づくる一滴である」です。
雨粒ひとつひとつが水たまりのように集まり、大河のごとく流れ行くさまは、人間社会のようでもあるからです。
「人は誰も一人では生きていけない」という言葉があります。
どんなに経済的に恵まれ、健康で幸せに生きていたとしても孤立した人というのは、やはりつらいものでしょう。
そして、自分の興味あるもの、たとえば、野球やオリンピックなどに熱中するといったように多数の人間との一体感を求めて生きているともいえるのです。
社会には善人がいれば、どうしようもない悪人もいたりします。許すことのできない裏切者だっているのが世の中です。
本書ではキリスト教のユダが例としてあげられていますが、ユダの裏切りがなかったら、現在のキリスト教の繁栄があっただろうかと考えれば、ユダの行為も意味があるものになります。
「悪人にも役割がある」とは、常識では考えられないですが、そう考えることで救われることだってあるということです。
自分らしい共同体感覚を身につけるには何が必要か?
本書から、自分らしい共同体感覚を身につけるために何が必要かを抜き出してみました。
それは次のとおりです。
「人間の一生は本来、苦しみの連続である」という感覚
自分を愛する心
寛容な心
「人間の一生は苦しみの連続」だなんていったら、一瞬で心がシュンとなってしまいますが、実際にそうだと感じる人も多いことでしょう。
自分自身がいま幸せだったとしても「世界のどこかで誰かが苦しんでいる」と考えるだけでも憂鬱になるものです。
人間は誰でもいつかは死にます。つまり、生まれた瞬間から「死」というものに向かって歩んでいくのです。
自分が思わぬ災難に遭ったり、長年悩み続けていることがあったとしたら、それはそれで仕方ないのだと覚悟することで乗り切れるものではないでしょうか。
だからといって自暴自棄になり、自分を大事にしないのはいけません。なぜなら、自分を愛せない人は他人を愛することができないからです。
自分を簡単に傷つける、自傷行為ということですが、裏を返せば、他人を簡単に傷つけることだってありうるでしょう。
これは命の重さをないがしろにしている点では一体なのです。
自分の命を尊敬できない人間は、他人の命も尊敬できないのです。
昨今の自殺、他殺の増加もこういったことが原因なのではないでしょうか。
そこで、大事なのが「寛容」な心を持つことです。
私たちは光と影の両方に生きています。
それは、「昼と夜」「寒さと暑さ」ともたとえることができます。そのどちらかの片方だけにひとつの車輪だけで走っていくのは危険です。
光があれば影があり、プラスがあればマイナスがある。生があれば必ず死があるというように当然と考え、対立し排除しないことが大切なのです。
つまり「寛容であれ」です。
どうすれば生きづらい社会を生きられるか?
締めくくりとして、どうすれば生きづらい社会に折り合いを付けながら自分らしく生きられるかを本書から考察します。
それは次の3つです。
〈早天慈雨〉を感じること
この世には「真実」もあれば「うそ」もあるという俯瞰する心を持つこと
身や心を軽くし自分や他人に「励まし」や「慰め」の言葉をかける思いやりを持つこと
〈早天慈雨〉(かんてんじう)とは、非常に困ったときに、もたらされる救いの手であったり、長い間待ち望んでいた物事が実現することのたとえです。
それはからからにひび割れ、乾ききった大地に降りそそぐ一滴の雨水が甘露であるように、暗黒のなかだからこそ一点の遠い灯に希望を見たりするかの如くです。
「九死に一生」といえば大袈裟ですが、人間の一生のなかでこのような場面が少なくともあることでしょう。
だから生きていけるのですが、その〈早天慈雨〉を意識することで自分の人生だって捨てたものではないと思えるものです。
しかし、この世には「真実」もあれば「うそ」もあります。
つまり「真実」も「うそ」も表裏一体です。それが本当のところだから、それらを対立させて考えず俯瞰(ふかん)してみれば、心のダメージも少ないでしょう。
「だまされた」と思ったら、自浄しましょう。早く自分の価値観に立ち返り「うそ」の世界にどっぷり浸からないことです。
浄土真宗の中興の祖である蓮如上人(れんにょしょうにん)は「人はかろきがよき」と言います。
「人間は軽薄なくらいでいい、いっぱいしゃべって言葉が多いほうがいい」ということですが、発散させない人生は不平不満が溜まってしまうということでもあるでしょう。
そうやって身や心を軽くして、自分や他人に「励まし」や「慰め」の言葉をかけるのです。
人間はまだ立ち上がれる余力と気力があるときに励まされると、再び立ち上がることができます。
ですが、もう立ち上がれない、自分はもうだめだと覚悟してしまった人間に励ましの言葉は上滑りしていきます。
もうがんばれない人に「がんばれ!」と言っているようなものです。
そんなときは「励まし」ではなく「慰め」の言葉をかけましょう。
言葉がかけられないなら、何も言わずに無言で涙ボロボロ流して、いっしょに泣いてあげる。
何の役に立つのかと思うかもしれませんが、これが大きな役割を果たす場合だってあるのです。
悲しみに寄り添う姿勢は、人生のいろんな場面で経験した人も多いことでしょう。
それが「気づかい」とか「思いやり」というものでしょうね。
五木寛之イムズに触れて
「ポジティブ」なことに価値があるという社会ですが、どんなに前向きに生きようと頑張ってみても、心がなえるときはあるものです。
ですが人間の一生とは「ポジティブ」と「ネガティブ」の繰り返しであり、苦しみと絶望の連続であるともいえるのです。
そんな生きづらいこの世を生きるには自分なりの覚悟を持つことから開けるというものでしょう。
「悩み」「苦しみ」「不安」とうまく折り合いを付けるためにもぜひ本書を読んでみてはいかがでしょうか。
そう思わせてくれる一冊でした。