個人目線で考える「個人的資本経営」のすゝめ
近年、日本のビジネス界において「人的資本経営」という言葉がバズワードとなっている。
2023年は人的資本経営の開示元年と言われ、上場企業では人的資本の情報開示が義務化された。
人的資本経営とは
経済産業省では人的資本経営を以下の様に定義している。
つまりは「ヒト」を「モノ」と同じように商品を作る際の資源(費用やコスト)として消費するのではなく、人材が持つスキルや知識を資本(企業価値を向上させる資産)として投資を行い、能力を引き出すことで会社を持続的に成長させていこうという考え方だ。
具体的には人材のスキルUP(リスキリング)に投資をすること、ハラスメントを無くして心理的安全性を確保すること、それらの取り組みを対外的に公開すること等が行われており、企業のマネジメントとして、それらが重要であることは間違いない。
企業目線の人的資本経営の「違和感」
しかし、多くの会社の人的資本経営事例を見ていると、個人的にどうしても現在の状況に「違和感」を感じざるを得ない。
何故なら人材が大事、多様性が大事と言いながら
企業目線での取り組みであるがゆえに「個人」の一部分しか捉えておらず、企業の望む画一性を求めているようにも思えるからだ。
さらにハラスメント防止という「正義」の元にさらに「個人」に踏み込めない状況も起きている。そして恐らくは多くの企業で、圧倒的に「対話」が足りていないのではないだろうか。
人材投資の外部PRを行うための研修にお金を使うよりも、コストと割り切り、個人の給料に回して欲しいと思う人もいるだろう。
会社にいる全員が仕事のスキルアップを欲しているわけではないし、もっと働きたい人も、働きながら育児や介護を頑張っている人も、仕事以外のライフワークを頑張りたい人もいる。
当たり前だが、個人は会社にいる基本8時間以外の16時間を含めて個人だ。それを決して蔑ろにはできない。
なぜ、個人目線の人的資本経営をすすめるのか?
これはあくまで「個人的な」見解であり、私自身もまだ納得解を見つけられていない。だから、私は「個人的資本経営(仮)」を研究することにした。
より良い言葉が見つかったら変えるかもしれないし、意見が変わったら前言撤回する。社会や会社に関わる「個人」として、違和感を言語化し、思考する、そのプロセスに価値があるはずだ。
歴史的には人的資本という考えは18世紀からあるらしい。そして日本でも「企業は人なり」という言葉は昔から多くの会社で語られている。
SDGs、ESG、人的資本経営等、色々な言葉で多くの権威ある著名な方が、人の大事さを説いており、きっとそれらの言葉の中に解決のヒントはある。
しかし、21世紀になっても一向に人材に対する問題は変わっている気がしない、むしろより複雑化してきている気がするのは「個人」の意識全体がまだあまり変わっておらず、世の中が変わっても、多く人はその変化に対応できていないからではないだろうか。
今を生きる自分達を未来人はどのような歴史として語るのかは知り得ないが50年後100年後、より企業と個人の良い関係、良いバランスが保てる様にしていきたい。
願わくば人的資本経営を考える個人を増やし、欧米の考え方や著名な方々の考え方をただ取り入れるのではなく、個人目線で日本人なりの人的資本経営の在り方を考えていきたい。これは自己満であり「自己中心的利他」のためだ。
その昔、福沢諭吉は「学問のすすめ」で当時の時代背景から日本が欧米と対等に外交できるように近代化の必要性を説き、大衆に実用的な学問を身につけるよう勉強の必要性を伝えた。
今の時代においては「個人」が国や会社に守られているイメージを変えて、対等な存在であることを認識し一方的に決められた教育を受けるだけではなく、「個人」が主体的に実用的な学問を身に付けるための勉強をしないといけない。
個人が自ら人的資本経営を考え学び、WHYを見つけ出すことで本当の意味の人的資本経営に近づいていく。これが個人目線での人的資本経営をすすめる理由である。