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【気付き】私は私だからダメなんだという思考

私は私だからダメなんだということと
私は私だから良いんだということと
同じ事象で比べてみましょう

私は私だから明日生きる意味もない
私は私だから明日生きる意味がある
両者とも、明日から職を失い
収入がなくなり
人が作った文化の中で生きていける可能性が低いとします
大切なことなのでもう一度

私は私だから明日生きる意味がない
私は私だから明日生きる意味がある

意味がないきっかけが大きな存在に無下に扱われた、としましょう
意味があるきっかけを大きな存在に『己を信じろ』と言われたとしましょう

たったのそれだけで、進行方向が変わることがあります
たったのそれだけで、苦労を笑える場合があります

『たったの』とは言いましたが
それが大きいのが問題でもあり
現実なのかもしれない

だけれど、惜しい!
もったいない!

先進国の多くの若者が生きると死ぬの境目が見えていないのではないかと心配しています
どちらも実は簡単で、選ぶのは自身で進むべきに指を指すだけです

生きるための最低条件、衣食住
それが当然のように在って
あとはそこに上乗せされたモノ
多くの人々にとってはそれを『ゼイタク』とも言われています
それも、あれも、これも『当然』になったときに何が残るのでしょうか

これは憶測の範囲ですが、

それは『温もり』です。

実際の温度とは限りません。
実際の存在とも限りません。
イメージでもいいのかもしれません。

自身を認める存在。
自身が在ることの確認。
自身が立っている地に足が着いている実感。

それが心の多くを占めるのではないかと私は想像しています。
いわゆる『親ガチャはすれた!』と思っている方には希望を削ぐようで申し訳ないのですが、私個人的には多くはたぶん肉親の影響でないと無理かな。
その意味では私は恵まれていたのでこんな文を綴れているのですが。
だけれど、私の発言など一つも正しくありません。
信じた誰かを信じるのは個人の自由です。

少なくとも信じたあなたも信じられた相手も存在しているのですから
それは可能性のカタマリです。

可能性だけでオモシロイことできませんかね。
可能性だけじゃ不服ですか?
AIに問うたら納得いきますか?

何をとは言いませんが
私は私のオリジナルを信じて
妻や子供や好きな人たちと一緒にオモシロイ日々を過ごそうと思っています

誰かの後ろに並ぶのは無理だった
誰にも付いていきたくなかった
それを受け入れてくれたのは肉親とパートナーだった
私にとっての結論はそれだけです

だからね
恩返しはしていこうと思っています
それだって立派な
生きる意味でしょ?