【再考】伝統を残すべきボーダーライン
一般的に「伝統は残さなければいけない」という価値観がありますよね。
今回はそれを疑い新しい価値観を探ります。
最初に結論を述べます。
私は不要な伝統技術はさっさと捨て、博物館に行くべきだと思っています。
仮にも伝統産業に関わる立場として間違っているという意見もあると思います。
しかし、私はそれに対し反論します。
これは余談ですが、私は超低成績の生徒でしたが中学時代のディベートの授業で負けたと思ったことは無いですし、大学時代は趣味に没頭した劣等生にも関わらずプレゼンの授業ではグループ・個人それぞれ代表に選ばれた過去があります。
自慢はここまで。
私は今生きている人が豊かであることが企業にとって最も大切なことだと思っています。
思い込みって本当に怖いんですよ。
「古い技術だから守らなければならない。」「伝統は残さなければならない」「昔から確かなものは今でも間違いない」根拠は? と、問われて本当に正論が言える伝統工芸従事者はどれほどいるでしょうか。
おそらくほとんどの職人さんが私が小一時間問うことで答えを失うでしょう。
本当に大切なものは何ですか?
職人さん個人的にはそれは「伝統」と答えるかもしれない。
だけれど、あなたを支えてくれる周りの方々の顔を思ってほしい。
「収入にならない」「手間暇がかかりすぎて商売にならない」「そもそも実用性がない」
3拍子揃うなら即捨てるべきです。
その技術は。
大切なことなのでもう一度言います。
「その技術は」
散々否定しましたが、必要とされていない技術は不要ですが「マインド」は残すべき部分が大いにあると思っています。
具体例を出します。
私の会社は70余年に渡り伝統的な仏壇を作っており、伝統があります。
伝統的な技術も必要な範囲で引き継いでいます。
ここで、祈りの空間が欲しく、ただの木の板が欲しい人がいるとしましょう。
ふつうの家具屋さんが「これは儲かる」と思い木の板を作った。
私たちは、伝統的な仏壇のことを知ったうえでクライアントの希望を叶えるべく同じような木の板を作った。
どっちの板がほしいですか?
私なら私に作ってもらいたい。
画家のピカソは写実的な絵が卓越しているにも関わらず崩した描画をし、キュビズムの代表とも言える存在になりました。
ピカソが評価されている主の理由だとは思っていませんが、ベースがあるからこそ素晴らしいのだと思います。
『必要なものだけ残しましょう。』
経済がしぼむ日本において、あえて迷惑をかける選択をする必要はありません。
そんな余裕は無い。
少なくとも自分や自分の近くにいる人たちが期待を持てる存在になりましょう。
私がこの会社に入ったとき、伝統的な仏壇の在り方が崩壊し始めていました。
私はそもそも部外者だったので、無駄なものを壊したいと思っていました。
取捨選択に多くの時間を費やしました。
それも仕方がない。
パソコンもインターネットもなかったんですこの会社は。
顧客の整理も全部手書き。
デジタルに直しましたよ、本当に大変でした。
男だらけの会社で70年以上経つとチリが積もり厚い地層になります。
大変でした。
妻が入り、更に一気に飛躍するのですが、それは後日。
現状、私は必要な部分の伝統をギリギリ守っているつもりです。
通常10年以上かかると言われている技術に関してもアプリケーションを多用することで大幅なショートカットをしました。
デザインに関わっていて良かった。
正確なCADの設計図では作れない要素が仏壇にはあります。
とんでもなく難しい木工品です。
それをデザインの力で少しでも残せたことは本当に良かったと思っています。
ここからは余談です。
現状、私たちは慌ただしく、勤務時間中はなかなか心の余裕がありません。
忙しいこと自体は、私は嫌いではないのですが、ゆくゆくは私の後輩君(生意気に言えば右腕君)と無駄な伝統技術を解析し製作する余裕が少しでもあるような未来を作りたいと思っています。
不要な伝統は趣味でいいんですよ。
それくらいが楽しい。
そこにしがみついて周囲に迷惑をかけたり心配させる理由なんてありません。
父が言っていた『お前の好きにしろ』
それに沿って40代になった今も私は生きています。
なんて幸せなんでしょう。
一見不自由が無いのに不幸を訴える人って納得していないだけなんじゃないかな。
という考察も今後上げてみたいと思っています。
相変わらず長い。
今日はここまで。
ありがとうございました。