#6 自社研修(後編) 〜激闘〜
10分間の休憩をギリギリまで喫煙所で過ごし、可能な限り煙を摂取してから急いでアジトである会議室に戻った。
見計らったかのように、会議室のノックが優しく鳴り、次の研修の講師を担当する執行役員の矢口さんが会議室に入って来た。
「よろしくお願いしますね。」
矢口さんの雰囲気通りの優しい声色がこれから始まる睡魔との激闘を一瞬忘れさせた。
「よろしくお願いします!この前の歓迎会はありがとうございました。」
「いえいえ!おじさん達で盛り上がっちゃって悪かったね!」
(それはたしかに!悪かったよ!)
「いや!色々話を聞けて楽しかったです!」
(これを言うの、もう何回目だ?)
すると矢口さんの優しい声に乗せて鋭い質問が飛んできた。
「どー?研修眠くない?」
(!!??)
ドキッとした。
先程の長浜さんの研修は睡魔と一進一退の攻防のすえ、僕が勝利を収めた。
しかし、率直に言えば、ものすごく眠たかった。
やはりこの人は雰囲気こそ優しいが鋭い感覚を持っている。
執行役員の肩書は侮れないと思った。
「いやー、大丈夫です。」
絞り出すように僕は答えた。
「そうですか、この研修は2時間でちょっと長いけど、大事な内容だから、頑張って聞いてね!」
(2時間か………)
そして早速、「コンプライアンス研修」が始まる。
研修は会議室に設置されたディスプレイにパソコンをつなぎ、パソコンに入っている研修資料を映して行われる。
最初にコンプライアンスとはどういうものかという基本的な概念から入り、会社情報セキュリティルールの話になった。
「仕事の書類を許可なく社外に持ち出すことは禁止です。」
(そーなんだ!厳しいな…)
「会社の情報をSNSに投稿することも禁止です。」
(なるほど!)
「個人のパソコンやスマホを仕事で使うことも禁止です。」
(徹底してるな…)
情報セキュリティの話からは、さすがちゃんとした会社といった印象を受けた。
その後も情報セキュリティに関する細かな禁止事項が次々と発表され、気づけば30分程時間が経っていた。
ここまでは、休憩によるリフレッシュの余韻と身近に関係する内容であったため、睡魔の入る隙を与えなかった。
(いいぞ!この調子だ!!)
そして、研修内容はハラスメントの話になる。
「まずはパワーハラスメントから。いわゆるパワハラとは…」
(…この状況もなにかのハラスメントに該当しないのか……)
「それからセクシャルハラスメント。これもよく聞くと思うけど…」
(……言うなれば……マンツーマンで退屈な研修ちゃんと起きてないといけないハラスメントだ……)
「次にアルコールハラスメントとは……」
(……略して……マンハラだ………)
「それから、スメルハラスメントとは…」
(…………………)
「それで、マタニティーハラスメントとは……」
(………ついに……来たか!……)
ついに奴がやって来た。睡魔だ!
研修が始まって45分が経とうとする頃、睡魔は再びうごめき始め、僕に迫ってきた。
いよいよ睡魔との第2ラウンドが始まる。
(45分経過してからのお出ましか…まー悪くないだろ…)
危機感を感じながらも、先程の研修で培った睡魔との戦い方を思い出す。
今回は早めにスースー目薬を使用し、もともとけっこう目薬さすやつですと、矢口さんに刷り込ませておく。
しかし、睡魔撃退に抜群の効果を発揮するこのスースー目薬の使用頻度にも限度がある。
さすがに10〜15分に1回のペース目薬を使用していたら、あからさまに僕は眠いですと言ってるのと同じだ。
眠そうにしてることすら、相手に悟らせてはならない。
そのために、せめて20〜30分に1回。残りの研修時間で合計4回の使用を固く誓う。
あとは気持ちで睡魔と真っ向勝負だ。
(かかって来い!ぶちのめしてやる!)
研修開始から45分経過したタイミングで1回目のスースー目薬を投入し、睡魔との初戦を制する。
研修は知的財産権の話に変わっていた。
「知的財産権とはね…」
(睡魔に勝ちさえすればいい……)
「その中で産業財産権っていうのがありまして…」
(寝たらクビだぞ!)
「まずは、特許権ってのは聞いたことあると思うけど…」
(……………よーし…………やってやるからな……)
「うちの会社でも特許はけっこう保有してまして…」
(………)
「こちらが特許出願の流れになります…」
(…………30分経ったか?……まだか……)
「他にも商標権ってのがあってね…」
(……………………一旦、深く呼吸しろ!!)
「次に意匠権についてなんですが…」
(30分たったか?いや……あと少し…)
「それから、実用新案権についてですが……」
(……………)
(20分しか経ってないが……行くしかない!!目薬!!!)
研修開始から1時間5分を経過したタイミングで2回目のスースー目薬を投入。
この時、既に30分は目薬を耐えることができないほどに睡魔に攻め込まれている事に気づく。
いつの間に研修はインサイダー取引の話になっていたが僕はそれどころではなかった。
「次にインサイダー取引についてですが、これは、金融商品取引法の…」
(………気持ちを…強く…持て……)
「内部者、いわゆる社員が株価に影響する未発表の情報を…」
(………たぶん……この話は……大事だ……)
そう頭の片隅で感じながらも、淡々としたペースで次々と発表される聞いたことのない権利や法律の研修内容に推され、睡魔は破竹の勢いで攻め込んできていた。
「例えば、業績予測とか、新製品の発売とか、こういった重要な情報は…」
矢口さんの優しい声が睡魔をさらに勢い付かせる。
(このままじゃ……ぶちのめされるのは……僕だ……)
(しかし、目薬はさっき使ったばかりだ…)
(こうなったら……あれをやるしかない……)
そう思い新たな作戦として、自らの手により、自らの手をつねる手法をとることにした。
物理的に身体に危害を加え、痛みにより睡魔を退けようと考えたのだ。
(これで……どうだ!!!)
右手で左手の甲の皮膚をねじり上げる。
(んー……………)
(…………)
(…………ん?)
依然として睡魔の勢いが止まっていない事に気づく。
(……どうゆうことだ?)
会議室の机の下に目線をやる。
そして、自分の左手に危害を加えるという、嫌な役回りを引受けてくれた自分の右手の人差し指と親指を見つめる。
(まさか……お前ら………)
自分自身の身体の一部に対して、初めて哀れみを感じた。
(全然……力……入ってないじゃないか……)
その人差し指と親指は、既に睡魔に犯され、自分を戒めるための行為に反して自分に甘く、強烈な痛みを繰り出そうとはしていなかったのだ。
(……情けない……)
皮肉なことに、この作戦はつねる痛みはそこそこに、自分自身への甘さを痛感させられる結果に終わった。
その間も研修内容は単調に進み、それに伴って睡魔は勢力を拡大し、どんどん僕の気力を蝕んでゆく。
(やばい………)
(…………)
(とりあえず、15分たった!!もー目薬入れるしかねー!!)
研修開始から1時間20分を経過したところで3回目の目薬を使用してしまった。
(くそ……目薬はあと1回しか使えない……)
追い込まれた。
研修時間残り40分間の中で目薬はあと1回しか使えない。使いどころを間違えたら勝ち目はない。
矢口さんは淡々と優しい声で研修を続けている。
「そのため、家族や友人にもこれらの情報を言ってはいけません。」
(もー……なんの話してんだか……まったくわからん……)
どこの項目のなにを説明されているのか皆目見当もつかなかった。
「違反に対する刑事罰は…」
(…………)
「それだけではなく、違反者に対する金銭的負担として課徴金も……」
(………)
(………………)
(ウソだろ…………)
(ウソだと言ってくれ………)
(目薬はさっきさしたばかりだぞ…)
目薬を指して10分の経たないうちに強烈な眠気が僕を襲い始めた。
起きなければならないという気力は風前の灯火となってか弱く揺らいでいる。
そこに猛烈な吹雪となって睡魔は襲いかかり、今にも消えそうに灯火を根絶やしにかかる。
(もう…………限界だ……)
寝たらクビという気持ちでは立ち行かぬ領域に追い込まれた思考が、なぜか雪山での遭難シーンを思い浮かべさせ、僕の中に2人の人格が誕生させた。
そして、6人掛けの会議室が極寒の雪山と化す。
(もう……オレはダメだよ……)
(バカ言ってんじゃねー!!ここで寝たら死ぬんだぞ!!)
(もう……寝たいよオレ………)
(ここまで頑張ってきたじゃんか!!)
(楽になりたい…………)
(あと30分でこの吹雪も止む!!)
(………)
(頑張れ!!今は耐えろ!!)
(………………)
(寝たら死ぬぞ!!!)
(………………)
(起きろ!!)
(……)
(起きろ!!)
(………)
(……………)
(………………………)
(………………………………………)
(……………………………………………………)
ハッとして目を開ける。
(やばい!!!!)
一気に鼓動が高鳴り、全身の血流が激しく脈打つ。
(寝てしまった!!)
意識が飛んでいた事を自覚する。
(どれくらいの時間が経った??)
状況を把握するために五感を研ぎ澄ます。
(研修内容はそれほど進んでない!1分かそこらか?)
しかし、完全に目を閉じたことは間違いない事実。
(しまったー………やってしまった!!)
悔恨の情に駆られながらも、すかさず瞳だけを矢口さんに向け、悟られないように様子を伺う。
矢口さんは淡々と前のディスプレイを見て説明を続けている。
(バレて……ないか?)
意識飛んで目を閉じていたのは恐らく、一瞬のこと。
その瞬間に矢口さんがこちらを見ていない事を切に願うしかなかった。
(頼む…バレてないでくれ……)
(干されたくない…)
(クビになりたくない……)
それからも研修はしばらく続いたが、自責の念と矢口さんに寝たことがバレているかもしれないという恐怖心から緊張感が高まり、睡魔に攻め込まれることはなかった。
そしてついに研修が終を迎える。
「それじゃ、少し早いけど、これで研修としては終わりになります。」
(終わった……、そして……終わったかもしれない……)
やっと研修が終わったという開放感から、緊張の糸が切れて一気に身体が重くなった様に感じた。
この時点で研修内容が頭に入っていない事に対する問題意識は高次の問題であり、遥か上空に棚上げされていた。
「一方的に話してしまったけどなにか質問はありますか?」
(質問があるとすれば、寝たのがバレたかどうかだ……)
「いえ……大丈夫です……」
「まー今の時代コンプライアンス最優先だから気をつけてくださいね!」
「はい……」
「じゃぁ終わります!ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」
遂にこの日の研修カリキュラムが全て終わった…
矢口さんの優しい雰囲気からは僕が研修中に寝たことに気付いているのか否か、読み取ることはできなかった。
矢口さんが会議室を出た瞬間、
僕は目を閉じ、会議室のテーブルにのめり込むように体をもたげて、顔を埋めた。
すぐに鈴木さんが部屋に入ってくるかもしれない。そう頭ではわかっていたが、そのギリギリを狙い少しでもこうしていたかった。
ガチャ!
ドアが空いた。
その音に反応してすぐさま身体を起こしたが、鈴木さんには僕が顔をテーブルに伏せていた姿勢を見られていたようで、僕を見るなりニヤついた。
嫌な所を見られた。
「すみません!」
「いいよ!いいよ!そうなるよね!」
鈴木さんは優しく返してくれた。
「眠かったでしょうー?」
鈴木さんはまだニヤついていた。
「いやー…まー…少し…」
「でも1人だから寝るわけにも行かないしね!」
(まさか……)
「だから言ったでしょ?1人での研修は大変だって!」
(このことだったのか……)
鈴木さんの言ったあの時の言葉の意味がようやくわかった。そして見事にその大変さを痛感した。
「でも、とりあえず明日は1日営業研修だから眠たくなることはないだろうね!」
鈴木さんは終始ニヤついて、嫌味のような言葉を言うが、優しくイジるような言い方に少し安心した。
明日の営業研修は営業の先輩に1日同行することになっていて、最初はこの営業研修が自社研修での1番の山場だと見込んでいた。
しかし、これまでの睡魔との攻防を経て、明日が営業研修である事に、この時の僕は安心していた。
その営業研修であんな修羅場を経験するとは知る由もない……
つづく
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