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#5 自社研修(前編) 〜迫りくる魔の手〜
来週から予定されているグループ全体での合同新入社員研修が頭の片隅で不安としてこびりついたまま、自社での1週間の研修が始まる。
まずは僕の新入社員研修をメインで担当する総務部の鈴木さんからの「会社概要教育」から始まり、1時間半程度の研修を終え、10分の休憩を挟んで、次は総務部長の香川さんから「会社理念と歴史教育」
新入社員歓迎会で幹部に囲まれ、その幹部をただのおじさんと認定した今の僕は総務部長クラスに緊張はしなくなっていた。
研修内容は、特別思い入れがあって入社した会社ではないこともあり、崇高な理念も栄光の歴史も僕の耳を右から左に抜けていき、ほとんど頭には入らなかった。
そして、1時間半の退屈な研修を終え、1日目の研修カリキュラムは終了。
研修終了後、香川さんが自分のいる会議室から出て行くと、入れ替わるようにして鈴木さんが会議室に入って来た。
「おつかれさまー!ま、今日はこんな所だね。」
「おつかれさまです!」
「明日からだね!大変なのは!」
(大変なのは明日から?どーゆー意味だ?)
再び、鈴木さんの言い方が引っかかったが、今日の研修は午後だけで、明日が丸1日の研修だから大変と言っているのだと、この時は思っていた。
そして、迎えた自社での新入社員研修2日目。
2日目最初の研修は、昨日に引き続き総務部長の香川さんからの「総務部研修」
総務部がどんな仕事をしてるか研修してもらい、次に鈴木さんからの「ビジネスマナー研修」
この辺りは来週のグループ会社全体での合同研修でも研修する内容らしく、基礎的な項目にしぼり、サラッと終わっていった。
滞りなく午前中の研修を終え、昼食を挟んで午後の研修が始まる。
この時はまだ、したたかに迫り寄る魔の手に僕は気づいていなかった。
午後の研修は執行役員常務の長浜さんによる「会計基礎」
題目の会計というワードに一物の不安を感じながらも、何より執行役員常務の長浜さんと歓迎会以来の再開に、嫌な思い出が脳裏を過る。
午後になり、しばらくして僕のいる会議室に長浜さんが堂々と入って来た。
「よろしくねー!」
「よろしくお願いします。この前の歓迎会はありがとうございました。」
「いやいや!おじさんに囲まれた飲み会だったけど楽しめたかな?」
(そりゃー!もちろん楽しめてないよ!)
「色々話聞けて楽しかったです。」
「そりゃ良かった。改めて、1人だけど頑張ってね!」
「ありがとうございます。」
(やっぱりこの人貫禄あるな…)
「とりあえず!今日は会計について研修するように言われてるから!早速だけど、澤村君、会計とか簿記とかそうゆうの勉強はしたことあるかな?」
「いや、ありません。」
「ま、そうだよね。だとすると、ちょっととっつきづらい内容だけど、まー簡単な基礎だから安心してください。一応、社会人として知っておいても損はないから」
そう言って、研修が始まる。
まずは会社が儲かる仕組みの概略から入り、赤字と黒字とはどういうことかという簡単な内容から入る。
(ほー!これくらいの内容なら理解できる。いけるぞ!)
そう思い、安心してしばらく話を聞いていると少しずつ研修内容の様子が変わり始めた。
「で、こうゆう表を貸借対照表って言うんだけど!見方としては…」
(…おっと?)
「簡単に言うと資産と負債と純資産という構成になっていて…」
(ちょっと難しくないかな?)
「資産にも流動資産と固定資産ってのがあってね…」
(あれ…ちょっとついていけてないよ…)
「負債も流動負債と固定負債があります…」
(とりあえず流動と固定?)
「それから!有形固定資産には、減価償却制度ってのがあってね…」
(はい!もーごめんなさい!わかりません!)
「ちなみに!流動資産/流動負債×100%が流動比率って言うんだけどね…」
(計算出てきちゃったね!もう無理……)
(てか、基礎的な研修でちなみにの話はアカンでしょ……)
「それから、純資産って言うのは、株主資本と評価・換算差額等と新株予約権に別れてて…」
(…………)
「資本金って言うのは、まー簡単に言うと株主から出資してもらった…」
(………………)
「資産の話に戻るけど、いわゆる現金ってのは当座資産に分類されて…」
(……あれ?……)
「あと、今後よく耳にするので言うと、棚卸資産っていうのがあって…」
(なんだか……ちょっと……頭が……ボーッとする……)
「あと一応触れておくと繰延資産っていうのとあって…」
(……目が………乾いてきたかな……)
すぐさま目薬を手に取り、かすみがかった目に潤いを与えた。
「次に、このグラフが損益分岐点を表してるんだけど…」
(……………あれ……ちょっと……やばい…)
「この点に達するまでは損失。この点に達して初めて利益になるってことで…」
息を潜めていた魔物がついに動き出す。
(これは!…………………眠い……)
次の瞬間に僕は自覚した。睡魔だ!
わずかな緊張の緩みに漬け込む魔の手。
難解な内容に翻弄され、思考が鈍っているのを良いことに奴は容赦なく僕に襲いかかってきた。
大きく息を吸い、背筋を伸ばして一度、睡魔を退ける。
その瞬間に、この状況をふかんで眺め恐ろしい事実に気づく。
(ちょっと待てよ……今、この部屋に執行役員常務の長浜さんと新入社員の僕の2人しかいないな……)
(完全なマンツーマンだな……)
(ということは……目の前で眠そうにしてたら絶対バレるな……!!!!)
(万が一にも、意識を飛ばしてしまったら完全にアウトだ!!!!)
危機に瀕していることを認識し、思わず幻想を抱く。
(あー…同期が何人かいれば…)
同期が何人かいれば、多少眠そうにしてるやつ1人、2人いたところでさして気にはならないだろう。
しかし、現実は僕1人…
しかも、こんなときに限って相手は一応、お偉いさん。
いくらただのおじさんとは言え、執行役員常務の肩書は伊達じゃない。
僕のためだけに時間を割いて教えてくれてるのに眠そうにしてたら、その印象が鮮明に焼きついて、この会社で干されるかもしれない…。どっかの地方に飛ばされるかもしれない…。最悪…クビになるかもしれない。
社会人になり3日しか経っていない僕にとって研修時に寝ることの失礼さも、執行役員常務の権力の大きさも正確に測ることはできず、突飛押しもない想像を真剣に考えていた。
(でも、もー大丈夫だ!!よーくわかった!)
今、自分の置かれている状況を理解し、眠るわけにいかないと決意した。
睡魔に対して状況をお伝えし、引き下がってもらうための思考を整理する間にも研修内容は無情にも進み、理解できないまま話は変わっていった。
「それからこれが損益計算書っていう表で…」
(あれ?また別の表の話か?)
「営業損益と経常損益と純損益があってね…」
(………ややこしい………)
「営業損益って言うのは、売上高から売上原価と販売費、管理費を引いたもので…」
(……………………)
「経常損益って言うのは、営業損益に営業外損益を加えたもので…」
(……あれ……ちょっと…やばいな……)
睡魔は僕の思考の反撃をものともせず、平然と攻撃を続けていた。
「純損益は経常損益に特別損益を加えて、正確には税金を差し引いて…」
(落ち着け……わかってるよな?…今は絶対に……眠るわけには………いかない……………)
容赦ない睡魔へ反撃の第2段対抗策として、僕は大きく頷き、「はい」「なるほど」のあいづちをする作戦に出た。
しかし、これはすこぶる威力が弱く、すぐに睡魔に反撃された。
さらに誤算だったのは、この作戦により、僕が研修内容を理解していると思った長浜さんが研修資料に無い細かな内容まで話始め、かえって睡魔を勢い付けたことになった。
(作戦失敗だ……やばい…やられる……)
(とりあえず、困ったときには目薬だ!)
幸いなことにこの目薬はスースーするタイプの目薬で眠気覚ましには抜群の効果を発揮した。
まさに伝家の宝刀を振りかざし、睡魔に対して「くらえ!!!」と言わんばかりに乾いた瞳を潤わせてやった。
しかし、この目薬は伝家の宝刀であり、諸刃の剣。
目薬の滴下回数が急激に増えること自体が眠さの証明になる。
あとは気持ちで戦うしかないと覚悟を決めた。
(深く呼吸しろ………)
(背筋を伸ばせ………)
(目薬は………いや、まだだ……)
(ここで寝たら干されるぞ………)
(飛ばされるぞ……)
(…………)
(………………………)
(……………………………………)
(目薬!!!)
(危ない………)
(ここで寝たらクビだぞ………)
(絶対眠れない戦いがここにある!!)
「とまー、こんなところかな!時間もちょうどだからこの辺りで終わりにしようか!」
長浜さんの口から待望の言葉が発せられ、ついに研修が終わりを迎えた。
(勝った………僕は勝ったんだ……)
僕は睡魔との勝負に勝利した。
「基礎的にはこんな感じだね!なにか質問あるかな?」
(ある訳ないやろ!!何もわからないんだから!)
「あ、いや!大丈夫です!」
(基礎的でだいぶむずいぞ…こんなの社会人は皆わかってるのか……)
ちなみに、この後の技術部として社会人を生きていく中でこの会計の知識は差し迫って必要になることは無かった。
「じゃぁ、これで終わります。ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」
結局、会社経理の知識はほとんど理解できなかったが、僕の眠気は長浜さんには伝わっていないギリギリのところで持ちこたえた。はずだ。
休憩時間になり、僕はすぐさま部屋を出て喫煙所に駆け込んだ。
ここまで特別記述していなかったが、僕はたばこを吸う。
水中で息ができなかった状態から勢いよく水から飛び出し酸素を取り込むが如く、一心不乱にたばこの煙を吸い込んだ。
たばこを吸うことで目が覚めるという効果があるかどうかは知らないが、10分の休憩の中でできる限りの煙を摂取せずにはいられなかった。
なぜなら次の研修は執行役員の矢口さんからの「コンプライアンス研修」
しかも!この研修だけ2時間!
(激しい戦いになる……)
ふかしたたばこの煙が狼煙のように漂い、激戦を予感させた。
そして睡魔との第二次大戦の火蓋が切られる……
つづく
次の物語はこちらから!
「#6自社研修 (後編) 〜激闘〜」
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