湖上に浮かぶ世界都市『テノチティトラン』を探る
情熱の国、メキシコ
そんな、メキシコの中心地であるメキシコシティはその昔、今とは全く異なる世界の中心として君臨していた。
岩の上のサボテンと世界の中心「テノチティトラン」
このテノチティトランはどのような都市であったのか。
今回はそれについて見ていこう。
アステカの「首都(?)」テノチティトラン
高校世界史において、テノチティトランはどのように学ぶのか。
今回はその一例として、高校世界史教科書の代表例である、山川出版社の「詳説世界史改訂版」の記述を呼んでいきたい。
2022年発行の世界史Bの教科書によると以下のごとくである
いろいろとツッコみたいところはあるが、今回はそれを置いておいて、テノチティトランの記述のみに焦点を当てよう。
教科書においてテノチティトランは
「アステカ人が建国したアステカ王国の首都」であるとしている。
しかし、史実においてメキシコ中央高原に「アステカ王国」なる国家が誕生したことも、ましてやテノチティトランがその首都であったこともない。
この教科書記述は大きなミスリードを学生たちに強いてしまう。
それを理解したうえで、では一体「テノチティトラン」は一体どういった都市であったのかを見ていこう。
メシーカ人の都市国家「テノチティトラン」
テノチティトランは単なる「都市」ではなく「国家」としての役割も持つ「都市国家」であった。古代ギリシアのポリスや、古代中国の邑、オリエント世界のウル・ウルクなどのと同様であり、一つの単体の都市かつ軍事・外交・国政・祭祀などを行う、れっきとした都市国家であった。
テノチティトランはメシーカ人によって建設された。
1325年、メシーカ人は自らの部族神ウィツィロポチトリに導かれ、長い放浪の旅の末にテツココ湖上の中心にあった無人島に都市を建設したというのが、テノチティトランを支配していたメシーカ人の歴史であり神話であった。
そしてこのテノチティトランはわずか2世紀も満たない期間で拡大し、一時代を築くまでに至る。
テノチティトランの歴史概要
建国からほどなくして、テノチティトラン率いるメシーカ人はアスカポツァルコという都市の支配下にあった。一世紀ほどに及ぶ支配の末、メシーカ人たちは、その武勇で名を上げ、テノチティトラン自体も力を蓄えてきた。
しかし、1428年アスカポツァルコの支配に反旗を翻し、当時権威があり、かつ反アスカポツァルコで意志があったテツココとともに、アスカポツァルコを打倒。その後、トラコパンを仲間に引き入れ、アスカポツァルコの支配からテノチティトラン・テツココ・トラコパンの三都市同盟が成立することとなった。
これが高校世界史における「アステカ王国」の正体である。
そして、この後三都市同盟は1世紀を待たずして、メソアメリカに巨大な支配体制を築くこととなった。その合間に、文化都市テツココとの権力闘争や、メキシコ盆地さらには、メキシコ中央高原を飛び出し遠征するメキシコなど、様々な歴史があるのだが、今回は割愛する。
さて、それでは今回の本題である都市の内情について見ていこう。
湖上都市で世界都市
先ほどの記述どおり、テノチティトランはテツココ湖上に浮かぶ都市であった。
面積は12~15平方キロメートルほどであり、人口は20~30万人ほどであったという。また、全体的な都市圏としての広さは600平方キロメートル、人口は40万人ほどであり、この人口密度は当時の世界で見ても非常にまれなもので、当時のテノチティトランは世界都市といっても過言ではない繁栄を築いていた。
都市は神殿区を中央とし、地区を4分割、さらに中心から5つの湖上道が引かれており、それぞれの別都市への移動を容易にしていた。また、テノチティトランの北には姉妹都市である商業都市トラテロルコが鎮座しており、これら二つの都市を総じて、「大テノチティトラン」と呼称する場合もある。
こうした、世界都市はメソアメリカにも類を見ないほどの規模であり、テノチティトランはコルテスによる破壊と滅亡に至るまで、その栄華の限りを尽くした。
「水」とどう向き合ったか
テノチティトランはその立地上、一番の問題は水問題であった。
テツココ湖は淡水湖ではなく塩湖であり、飲み水を確保しなくてはならないし、また作物を育てなくては食事もままならない。
都市の拡大をするにも作物を作るにしても土地が必要である。しかし、湖の上という制約が課せられる。作物を育てても、梅雨の時期が来ればテツココ湖の水位は上がり、作物をだめにしてしまう。
ここで、テノチティトランが行ったのが1世紀にもわたる大規模な治水事業であった。
代表的な治水事業であげられるのは、テノチティトラン王、モクテスマ・イルウィカミナとテツココ王ネサワルコヨトルが協力して建設した16㎞に及ぶ大堤防である。これによって、テツココ湖からの湖水流入を抑え、塩分濃度を調整し、テノチティトランに作物を生産する能力を身に着けさせた。
※詳しくは過去のnoteを参照ください
アステカ王国に存在した16kmの巨大建造物「ネサワルコヨトルの大堤防」|金蔵皇栄 (note.com)
その後も飲み水の確保のためにチャプルテペク水道橋の建設、さらなる水質改善を目標にアウィツォトル王期に新たな堤防を建設するなど、テノチティトランは治水事業を通して、徹底的に水に向き合ったのだ。
こうすることによって、テノチティトランは基礎的な都市基盤を築き上げ、数十万人を収容する世界都市のしての基盤を手に入れたのだった。
また、それだけではなく、テノチティトランは宗教儀礼を通しても水と向き合った。
18の月に分けられたアステカの暦において、その半数の月には雨や水に関連した祭礼が行われていた。その中で、雨季が始まる6月はエツァルクアリストリという儀礼を行い、雨をつかさどる神であるトラロク神に生贄を送り、豊穣や雨を求め祈ったという。
このように、テノチティトランは「治水」という行為に国家の総力を挙げていたのだ。その証拠に、テノチティトランの中心に存在した大神殿「テンプロマヨール」には、メシーカ人の民族神であるウィツィロポチトリのほかに、先ほど挙げたトラロク神が祀られていたのだから。
宇宙の中心としての都市
テノチティトランに住まう人々は自分たちが世界の中心に立ち、世界の運行を左右する人間だと考えていた。
メシーカ人にとってテンプロマヨールは宇宙の5つの方向が交差する中心点であった。空から見て、テノチティトランとその世界を4方向に分ける4つの直線の中心であり、天頂と地底を結び、13層の展開と9層の地下界を通過する直線の中心が、テンプロマヨールであると信じていた。
その思想の一端はメンドゥーサ絵文書のとあるシーンからも読み取れる。
テノチティトランを表す鷲を中心にして、4つの都市が水平面上に4つに区切られていることがわかる。テノチティトランに住まう人々の思想がよくわかるであろう。
また、彼らは自らが世界の運行を左右するとも考えていた。
その思想は、テノチティトランを中心に行われる巨大な儀礼である「新しき火の祭り」から読み取れる。
52年に1度行われるこの祭りは、太陽暦である365日の暦と祭祀暦である260日が一周したときに行われる。都市に住まう人々が、街の火をすべて消すことで始まり、光を失った世界は、生贄の心臓によって活力を取り戻した「新しき火」によって、生を取り戻す。もし、失敗すれば世界は闇に飲まれツィツィミメによって、人々は滅ぼされる・・・
こうすることによって、世界は新たな52年の周期が行われる。
メシーカ人はこのように、暦を更新する儀礼でもって、支配領域にある都市に時間的支配を共有した。これは同時に、テノチティトランを中心とした、世界観を拡大し、その中に取り込んでいったのだ。
また、一方でこの思想はメシーカ人が自分たちが世界の運行を行っているという、考えを持たせるものでもある。
テノチティトランは支配の拡大を行う中で、こうした世界の中心としての都市という考えを築き上げてきた。
現代に続く彼らの祈り
現在、テノチティトランはメキシコシティの下に眠っている。
コルテス率いるコンキスタドールによって、破壊されたテノチティトランは、世界の中心としての機能をなくし、もはや誰もテンプロマヨールに祈ることはない。
しかし、その輪郭はまだ少し生きている。
地図から見た、現在のメキシコシティやテノチティトランの比較画像や、博物館での展示、そして何より今を生きるメキシコ人のアイデンティティに。
テノチティトランに生きた人々は、世界を動かすために、今日もまた祈り戦い続けているのであろう。
2024/7/30 金蔵皇栄
参考文献
山川出版社/木村靖二・ほか8名/詳説世界史改訂版
明石書店/井上幸孝/メソアメリカを知るための58章
柊風舎/アントニオ・アイミ/マヤ・アステカ文化事典
刀水書房/岩崎賢/アステカ王国の生贄の祭祀
講談社/青山和夫・編/古代アメリカ文明
勉誠出版/伊藤信幸・監督/メソアメリカ文明ゼミナール
特別展古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン展覧会図録
a portrait of tenochtitlan a 3D reconstruction of the capital of the Aztec Empire/https://tenochtitlan.thomaskole.nl/
Codex Mendoza/https://codicemendoza.inah.gob.mx/inicio.php?lang=spanish
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