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【愛着・AC 克服記録】Column 5-0 愛の証明 (前哨戦)
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(この話は予防線なんで、読まなくていいです)
(考え方として、面白いと思ってもらえれば)
0-1. ある意味最強な仮説 ― 「世界5分前仮説」
僕は次のコラムで「愛とは何か?」という証明に挑んでみます。
ですが、その前に僕の理論に対するいちゃもんには対策しときたい。
僕が何に対策したかったのか?
それは、いわゆる、「世界5分前仮説」です
(簡単な説明) 世界は5分前に誕生したという思考実験。仮に、「10分前の記憶があるぞ!」といっても、「その記憶も5分前に作られた」といわれると反論できない。全ての考え・概念が無に帰す最強の仮説。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%94%E5%88%86%E5%89%8D%E4%BB%AE%E8%AA%AC
ちなみにこの説は1950年にノーベル文学賞を受賞した、バートランド・ラッセルという人が考えたそうです。平和主義者だったそうなので、ただ意地悪のために考えたものではなさそうですね。
あるいは、「今、夢の中の世界にいる」、など、現在の実在性そのものに問いを投げかけるやつです。
別に、そうゆう思考実験をして、楽しむ分にはいいと思います
でも、そうゆうのを持ち出して「じゃあ、あなたはこれを棄却できるんですか?できないですよね、はい論破」
そんな輩に、論理的マウントを、かましてやる。
かかってこいや
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0-2. そもそも、どうして理論・概念は必要なの?
そもそもなんで「理論」とか「概念」って作る必要性があるんですかね?
それは、「現在の知識・方法では解けない謎」があるから、新しく発明する必要があるわけです。
頭の中で考えて、「こうゆう視点もありじゃね?」ってのが、概念。
何か実際のパーツがあって、それを組み合わせたものが、理論。
その構築に必要なパーツたちを、色々試して獲得したものが、実験的証拠。
英語でいえば、エビデンス。
だいたいの場合は、パーツ集めに失敗したり、理論に論理的瑕疵 (かし) が見つかって、水に流されていきます。(瑕疵は、欠けてる、って意味です)
ただ、僕は今回、曲りなりにも「理論の雛形」に到達できたわけです。
ここからは、構築した理論を審査してもらい、論理的瑕疵を指摘してもらいます。これを、オフェンスといいます。僕はこのオフェンスに対して、矛盾がないことを示さないといけません。
でも、ここで大事なのは、その論理的瑕疵の指摘は、作った本人には "できない" ということです。
だって、自分では、できたと思ってるんだもん。
本人にできることは、その理論をブラッシュアップして、必要なものを取り入れ、余計なものを取り除いて、論理的瑕疵をなくす作業です。
これを、ディフェンスといいます。
それと同じくらい大事なことが、どれくらい普遍性があるのか、色々な事象に当てはめてみる作業です。
大事なのは、"普遍性" です。
とある局所でしか通用しない論理なら、「まぁ仮説の1つですね」
結構、適応範囲が広いなら、「かなり普遍的ですね」
あらゆる物事に通底するなら、「それは真理だ」
となります。
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0-3. 「理論」の成立に対する、真摯な態度と、侮蔑的態度について
①「理論の審査の場に」立ち会う資格がない
僕は、前の段落で「わざわざ」理論の構築の「お作法」を書きました
なぜか?
ここは、「僕が構築した理論」の論理的瑕疵を問う場であって、妙な輩が、さもどや顔で持ち込んできた「なんちゃって理論 = 世界5分前仮説的な揚げ足取り」をお披露目する場では、ないんです。
とっとと出てけ、バカヤロー
こうゆう、「審査の場」は厳しいのです。
考案者が審査員に審議されるとき、同時に、審査員の誠実さもまた、考案者に審査されているのです。
「なんちゃって理論」
要はてめーを、論理的に棄却すりゃいいんだよな?
②「仮説そのものの論理性」ではなく、「理論の構築過程に存在する根本的瑕疵」
理論を構築するのは、「現在の概念・技術では解けない謎」を解きたい、という切実な要請がそこにはあり、そのために研究者は、さまざまなエビデンスを紡いで、理論の雛型、という結晶に凝縮します。
一方、「世界5分前仮説」はどうでしょうか?
たしかに、「今、この現実は、本当は存在しない、"かもしれません"」ということを、論理的に棄却するのはかなり難しいでしょう (てか無理だろ)。
しかし、その理論はそもそも、何に立脚しているのでしょうか?
エビデンスは、どこにあるのでしょうか?
もし、そうゆう方々が、なにか、エビデンスを紡いだ「結果」として、その理論に辿り着いたのなら、それは「審査の場」立ち会う資格が、十分にあると思います。
でも、そうゆう結晶を紡ぐ「過程」への尊敬がなく、ただただ仮初めのの「結果」だけを携えて、へらへらしながら、入り込んでくるやつ。
そんなやつは、ボコボコにして、虚無に放り込んでも、許されますよね?
(ジョジョ第5部のラスト、ディアボロが虚無に堕ちていく、ってこうゆう意味だったんですよ!)
このように、「仮説に根拠がない」という視点から、論理的に棄却する、というのが1つの対処法です。
5分前仮説さん?あなたは所詮、哲学的な仮説でしかないのですよ?
③ あえて、乗ってみる
もう1つ、相手の話に乗ってやる、という作戦もあります。
「5分前仮説さん、あなたの説で行くと、あなた自身も5分前に生まれたんですよね?じゃあもう、証明も反証も、この世界の実在性を問うことも、全て無意味ですよね。あなたも含めて。さ・よ・う・な・ら」
つまり、
「世界5分前仮説、お前は自らの仮説によって、自分の存在を無にしてしまっている。存在しないものは、最早議論の場に立ち入る資格すらない」
これが、やつらを追い出す論理です。
真摯なやり取りを拒み、全てを無に帰してしまうような考え方や態度。そんなものは、こちらからすれば「在っても無くても同じ」。やり取りをしようとする意志を失わせ、断絶を導くものは、「互いに認識すらできなくなり」、「結局自分の存在が無くなってしまう」のです。
以上、飛んで火に入る夏の虫を寄せ付けないための、蚊帳を張る作業でした。
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Column 5【愛の証明】
5-1 序編 「愛情とは?」
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