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【真似は上達への近道だが……】盗作と判断されるラインはどこにあるのか?(2018年3月号特集)


※本記事は2018年3月号に掲載された東直子先生のインタビュー記事を再掲載したものです。

真似して学ぶのが上達の近道

川柳・俳句・短歌の初心者がいるとして、上達のために1日1点、年間365点作る。それも大事だが、そのうちに行き詰まって飽きてくる。そこで優れた作品を鑑賞し、何をどんなふうに詠んでいるか学ぶ

たとえば、万葉集に

「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」(有間皇子)

という和歌がある。家なら器に盛るご飯だが、旅のときは椎の葉に盛る……。この歌のうまいところは「寂しい」とか「味気ない」ということは直接的には言わず、椎の葉に仮託していることかな……のように技術を学ぶ

というようにどんなジャンルでも初心者はまねから入る。絵画では模写をするし、書道では臨書をする。短詩型文学も同じだ。しかし、習作としてならともかく、明らかにまねた作品で応募していいかは慎重でありたい

プラスになる真似、マイナスになる真似

まねをすることで、その作者がやろうとしたことを盗む。これはいいこと、推奨されること。先ほどの万葉集の和歌で言えば、生な感情はそのまま書かず、出来事やモノを通じて伝えるという技術はいくら盗んでもいい

しかし、「家なら茶椀に盛る飯を草枕出張中はコンビニで買う」ではギャグにはなっても人に見せられた代物ではないし、まして応募するのははばかられる。

では、どこまで、どう似ていたら審査で落とされるか、東直子先生に聞いてみた。

「どれだけ似ているかによると思います。フレーズが丸ごと同じだと盗作とみなされて落とされますが、発想や語彙が似ている程度でしたら残すこともあります」

丸ごとは似ていないが、「あの作品を下敷きにした」ということがわかる場合はどうか

短歌の歴史を踏まえている(勉強している)ことがわかる場合は、プラスに働きますが、言いまわしや語彙をまねているだけの浅い踏襲だとかえってマイナスに響くこともあるかと思います」

まねが吉と出るか凶と出るかは、どういうつもりでまねをしたかによるのかもしれない。つまり、好きな俳人や歌人に影響されてしまったのか、上辺だけまねてなりすまそうとしているのかということ。そこに境界はないが、気持ちは前者でありたいもの。

東直子先生に聞いた!
誰にも似ていない作品にするにはどうすればいいか

自分の作品を多数創作することによって、自分の個性を磨いていくしかないように思います。さらに人に見てもらって、他の人から見て自分の表現の特徴はどこにあるのか、探してもらうのもいいかと思います。歌会や批評会、あるいは投稿欄は、そのために存在するようなものとも言えるので、そういった場所に積極的に参加することをおすすめします

審査員の判断とネット検索

川柳・俳句・短歌の公募では、類似作品はどのように調べているだろうか。主催者にアンケートしたところ、

「過去の名作との類似は審査員の判断に任せるとして、他の公募や最近公表された作品との重複はネットで検索して調べている」

という回答が多かった。少ないながら「調査はしていない」という回答もあったが、これは公募の規模、影響力が関係する

東直子先生もこう答えている。
「調査をしないところもありますが、NHKや新聞など大きなメディアは調査をしているようです

表現の新しさ、新鮮さを磨こう

人とは違う作品を作りたいが、題材や心情自体は同じでもかまわない。では、どこで違いが出るかといえば、表現ということになる。表現には、2種類ある。

1つは、同じ出来事(題材)を詠むとして、そのどの部分をどう取りたてるか。古い川柳に、

「ドロボーよ植木に水をやってくれ」(小沢功子)

という句がある。「大事に育てていたのにひどい」でもなく「枯れてしまったらかわいそう」でもなく、「水をやってくれ」としたところがいい

もう1つは、言葉の表現。

「鯛ちりの骨飛行機が落ちたよう」(川上三太郎)

「飛行機が落ちたよう」は比喩だが、どう見立てるかを工夫すれば人とはかぶりにくくなる

似た作品があったときはどうする?

応募する前に、偶然、またはネット検索していて、似たような作品を見つけてしまったときはどうすればいい? 主催者も検索するだろうし、全く同じなら応募はやめるしかない。趣旨が違うか、多少似ている程度なら応募していい。

応募後に同一作品を発見したら?

応募したあとに全く同じ作品を見つけてしまったら? 偶然の一致であれば仕方ない。しかし、盗作と言われたら困る。問われれば「偶然」と弁明はするが、そのうえで落選となるなら甘んじるしかない自分のほうがあとに作ったのは事実だから

選考作品のリメイクは許される?

既存の作品の作者が体験したことや思ったことを自分に置き替え、改めて作り直すこと自体はいい。しかし一般論を言えば、1句1首を募集する公募では先行作品をあからさまに下敷きにするのではなく、意識のうえでは全くの新作を作って挑戦を

世間が驚いた寺山修司のパロディー

寺山修司は、第2回『短歌研究』新人賞を「チェホフ祭」で受賞。歌壇から絶賛された。しかし、すぐに「チェホフ祭」には俳人の中村草田男の句を模倣あるいは剽窃(ひょうせつ)した歌があるとの指摘が出る

しかも、冒頭では「青い種子は太陽の中にある ソレル」という一文を引いているが、ソレルなどという人物は実在せず、この一文自体、寺山の創作だった。あたかも引用であるかのように見せかけた偽引用だったのだ。

審査をした中井英夫は短歌には詳しいが、現代俳句についてはよく知らず、草田男からの句からの模倣に気づかなかったと言う。参考までにそのうちの4首を挙げる(下記)。草田男の句を模倣したことは明らかで、盗作だと言えば盗作ではあるが……。

しかし、模倣もここまで天才的だと世の中の人を魅了するし、そもそもオリジナルとはなんだ、模倣の集大成ではないかとも考えさせられてしまう。そのような実験的で革新的な作品だった。

向日葵の下に饒舌高きかな
  人を訪わずば自己なき男 ──────── 寺山修司
  ひとを訪わずば自己なき男月見草 ─── 中村草田男
列車にて遠く見てゐる向日葵は
  少年が振る帽子のごとし ──────── 寺山修司
  向日葵や仮面より先づ帽を脱げ ──── 中村草田男
莨火を床に踏み消して立ちあがる
  チエホフ祭の若き俳優 ───────── 寺山修司
  燭の灯を煙草火としつチエホフ忌 ─── 中村草田男
そそくさとユダ氏は去りき春の野に
  勝ちし者こそ寂しきものを ─────── 寺山修司
  その銀でけごろもなど得よ和製ユダ ── 中村草田男

(栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史』より)

特集:どこからが盗作か
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※本記事は「公募ガイド2018年3月号」の記事を再掲載したものです。


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