春秋最初の覇者となる桓公とその右腕との劇的な出会い【教養を深める中国古典のお便り#22】
皆様、こんにちは!
メンバーシップ向け特典記事の「古典のお便り」22通目になります。
こちらのシリーズでは、普段の記事では取り扱っていない古典・史書の言葉を手がかりに、古代中国の歴史や文化をご紹介しています。
前回は『戦国策』からお届けしました。
今回は司馬遷の『史記』を取り上げます。
『史記』の概要説明は以下の記事で行っていますので、確認したい方はこちらの記事をご覧ください。
史記のお話もいよいよ次のパートに入ります。
この記事から春秋時代(前770~前403年)の始まりです。
春秋時代になると周王朝の権威が失墜し、各地で有力な諸侯が力を持つようになります。
中でも有名なのが「春秋の五覇」。
この言葉は、諸侯の盟主として君臨した5人を表しています。
5人の組み合わせについてはいくつか説がありますが、特に有名な人物の一人が斉の桓公(かんこう)です。
彼は数々の改革を行い、斉を強国に押し上げた名君主として知られています。
そして忘れてはならないのが、古代中国を代表する名宰相のあの人。
桓公の即位直後から右腕として大活躍したのですが、桓公との出会いのエピソードはなかなかに波瀾万丈。
というわけで、今回は斉の桓公(かんこう)が即位する際のお話について見ていきましょう。
『史記』斉太公世家に学ぶ
今回取り上げるのは『史記』斉太公世家からの言葉。
我が君が天下に覇者たらんと望まれるのであれば、管仲以外に適任者はおりません、という意味。
桓公に仕える鮑叔(ほうしゅく)が、管仲(かんちゅう)を採用するように進言している場面の言葉です。
桓公のもとには多くの人材が集まっていましたが、その中でも特に有名なのは、この管仲と鮑叔の二人でしょう。
「管鮑の交わり」という故事はご存知でしょうか?
お互いをよく理解していて深い友情関係にあることを表す言葉です。
この「管」と「鮑」は、それぞれ「管仲」と「鮑叔」を表しています。
二人はそれだけ信頼できる友人関係だった、ということですね。
しかし実はこの二人、どちらも斉国に属する同僚ではあるのですが、それぞれ別の後継者に仕えていました。
そんな中、斉の君主が臣下に暗殺され、後継者争いが始まってしまいます。
管仲と鮑叔は親友同士でありながら、後継者争いをする上での敵対関係になってしまったのです。
白熱の後継者争いは、鮑叔の主人である桓公の勝利に終わりました。
管仲が仕えていた主君は敗れたのです。
敗北した陣営に待つのは死のみ。
管仲も殺されそうになるのですが、親友である鮑叔の推挙を受けて生き残ります。
そして、桓公の右腕として歴史に残る大活躍をするのです。
歴史って不思議ですね。
それでは、管仲が桓公に仕えるまでのエピソードについて、もう少し掘り下げて見ていきましょう。
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