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冷めたスープを温め直すように、過去から新たな気づきを得る(『論語』為政篇)

今回取り上げるのは『論語』為政篇からの言葉。

故きを温めて新しきを知る、以て師と為すべし
(読み:フルきをアタタめてアタラしきをシる、モッてシとナすべし)

『論語』為政篇

過去の歴史や伝統を見つめ直し、新たな学びを得る。
そうすることではじめて他人の師となることができるのだ、という意味。

「温故知新」という四字熟語として、『論語』の中でも特に有名な言葉ですよね。

皆様も、学校の教科書などで一度は見聞きしたことがあると思います。

もしかしたら、そのときは「フルきをアタタめて」ではなく、「フルきをタズねて」と読んだかもしれません。

これは典拠とした注釈の違いによるものなので、どちらでも正解です。


『論語』は、何人もの研究者によって、古来より様々な注釈が検討されてきました。

中でも、南宋の朱熹(しゅき)がつけた注釈は、俗に「新注」と呼ばれます。

朱熹は1130-1200年の人で、朱子とも呼ばれています。

朱子学の創始者として有名です。

一方、朱熹よりも前の時代の注釈は「古注」と呼ばれます。

特に、後漢の鄭玄(じょうげん、またはていげん)の注釈が有名です。

鄭玄は127-200年の人なので、朱熹よりも1000年近く前の人になります。

1000年もの時間が経つと文字の意味の取り方も変わるもので、朱熹の新注と鄭玄の古注とでは、同じ語句に対して異なる解釈をしているところがいくつもあります。

今回の箇所もそういったものの一つです。

まずは書き下す前の原文を確認しましょう。

温故而知新

『論語』為政篇

この箇所が「過去から学んで、そこから新しい知識や気づきを得る」という意味であることについては、朱熹と鄭玄の見解は一致しています。

しかし、ここで問題となっているのが、「温」の字の意味の取り方です。

朱熹はこれを「たずねる」という意味で解釈しました。

過去の文献や遺物を訪ねて歴史を学び、そこから新しい学びを得る、というイメージですね。

一方の鄭玄はもっと素直に、「冷えたものをあたためる」という意味で解釈しています。

孔子の時代で温めるものといえば、スープなどでしょうか。

冷えて不味くなったスープであっても、もう一度温め直せば、また美味しく食べることができます。

場合によっては、現代のカレーのように、一晩置くことで味が染み込み、新たな美味しさに気づくことができるかもしれません。

つまり、冷えた料理を温め直して新たな味に気づくように、古い歴史や伝統も、今一度振り返って考え直すことで、新たな意味に気づくことができる、ということですね。

もしかすると、この言葉を発した際、孔子は食事中だったのかもしれません。

スープを温め直し、弟子たちと一緒に食事を摂りながら、

「いいかい?この温め直したスープのように、古くなった過去の事実であっても、扱い方や捉え方次第で新たな発見があるんだよ」

と、ミニ講義をする孔子を想像すると、なんだか温かな気持ちになります。

こう考えると、孔子の時代により近い鄭玄の方が、当時の文字の原義をよく捉えている気がしますね。

朱熹の新注は、鄭玄の古注をもとに分かりやすく意訳したものでしょう。

実際のところ、パッと読んだ際に分かりやすくてスマートなのは新注の方だと思います。

ただ、私は古注の素朴さも好きです。

最終的な意味はどちらも同じなので、読む場合は「タズねて」でも「アタタめて」でも、どちらでもお好みの方で良いと思います。

大事なのは読み方ではなく、そこに込められた意味と気持ちを汲み取ることだと思うからです。

私たちから見て「故き」ものとなった『論語』ですが、そこに込められた思いに光を当て、それぞれにとっての「新しき」意味を感じ取ることができたら良いですね。

故きを温めて新しきを知る、以て師と為すべし
(読み:フルきをアタタめてアタラしきをシる、モッてシとナすべし)

『論語』為政篇

過去の歴史や伝統を見つめ直し、新たな学びを得る。
そうすることではじめて他人の師となることができるのだ、という有名な言葉をご紹介しました。

変化が激しく、将来が予測不可能な現代だからこそ、過去から学んで、自身の教養や人間力を高めていくことが大切なのだと思います。

この記事を読んだことで、料理を温める際に「温故知新」の話を思い出し、自分の経験を振り返ったり、古典や歴史に触れてみたりするきっかけになれば嬉しいです。

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凪平コウ@古典・歴史愛好家
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