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漢詩

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漢詩に関する記事をまとめたマガジンです。
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記事一覧

木の葉を見て四季の移ろいを楽しめるような大人になりたい(唐庚『文録』)

今回取り上げるのは北宋の唐庚(とうこう)がまとめた『文録』に掲載されている漢詩から。 山僧は暦を数えることを知らないが、桐の葉が一枚落ちるのを見て、天下が秋を迎えたことを知る、という意味。 『文録』の中で、「唐代のものにこんな素敵な詩があります」と紹介されている漢詩です。 情景が想像できて素敵な詩ですよね。 この記事が投稿されるのは10月中旬。 暦上では、あと3週間ほどで立冬を迎える時期です。 秋分は09月22日、立冬は11月07日となります。 つまり、暦的には

日々の学びを十分に活かしきれていますか?(韓愈「贈別元十八協律」其五)

今回取り上げるのは韓愈の詩からの言葉。 自分はもう十分学んだと判断してそれ以上学ばなくなることを心配し、既に学んだことについて実践していないのではないかと心配する、という意味。 つまり、「自分は学びを十分に深め、実践できているだろうか」と常に自問しなさい、ということですね。 韓愈(768年〜824年)は中唐の文人。 唐宋八大家の一人で、白居易と並び称されるほどの人です。 日本でも、高校の漢文の教科書に出てきたりしたと思います。 韓愈は、当時流行っていた四六駢儷体(

自分の発言に責任と慎みを持つということ(馮道「舌句」)

今回取り上げるのは馮道(ふうどう)の漢詩からの言葉。 口は災難を招き入れる門のようなものであり、舌は自分の身を傷つける刀のようなものだ、という意味。 つまり、不用意な発言は自身を苦しめることになる、ということですね。 日本でよく知られている「口は災いの元」の原形だと考えられています。 馮道(882年~954年)は五代十国時代の政治家。 とても優秀な人ですが、彼の人生は波瀾万丈。 無謀なことをする主君に諫言して幽閉されたり、奇跡的に助け出されて転職したものの、転職先

北宋の偉人から学ぶ、正しい情報収集のあり方とは?(欧陽脩「読書」)

今回取り上げるのは欧陽脩の漢詩からの言葉。 物事の是非は自分で判断し、どのように取捨選択するかは自身の勇気ある決断にかかっている、という意味。 本の読み方について述べた言葉です。 つまり、本を読むときはその内容を鵜呑みにせず、どれが正しくてどれが正しくないかを自分で判断し、何を自身の糧とするかを勇気を持って決断しなくてはならない、ということですね。 自分で判断することの大切さを語っています。 欧陽脩は北宋時代(960-1127年)の政治家・学者。 文人としても有名

重要なときこそ平常心を忘れずに。焦ってもいいことはないのだから(陳師道「答無咎画苑」)

今回取り上げるのは陳師道の漢詩からの言葉。 物事に取り組む際には、焦って急かしてはならない。 手早くやろうとすると雑な間違いが多くなってしまうから、という意味。 つまり、大事な物事に取り組むときこそ、一旦落ち着いて慎重に対処しなさい、ということですね。 陳師道(ちんしどう、1053-1102年)は北宋時代の詩人・政治家です。 かの有名な蘇軾の教えを受けた秀才で、蘇門六君子の一人とされています。 詩の才能に恵まれていたものの、一首作るのに割と苦労するタイプだったそうで

信念を貫きつつも周囲への配慮を忘れない、そんな大人に私はなりたい(王安石「和平甫寄陳正叔」)

今回取り上げるのは王安石(おうあんせき)の漢詩からの言葉。 この道が成功するか廃れるかに私の使命はある。 世間の人々はあれこれ議論して口を出してくるだろうが、気にせずに言いたいように言わせておけば良い、という意味。 北宋の政治家である王安石の言葉です。 つまり、自分が信じた道を進もうとすると外野があれこれ口を出してくるだろうが、そんなことは気にせずに自分の使命を全うしなさい、ということですね。 王安石(1021-1086)は北宋(960-1279)の政治家で、文学者と

振り返ったときに「良い人生だった」と思えるような生き方をしたい(駱賓王「帝京篇」)

今回取り上げるのは駱賓王(らくひんのう)の漢詩。 人生100年を生きてから自分の人生が正しかったかどうかを振り返ろう。どうして50歳の時点で過去の過ちを論じる必要があるだろうか、という意味。 「三万六千」とは人生100年のこと。 1年は365日なので、100年で大体3万6000日になります。 そして「四十九年の非」というのは、春秋時代の逸話を踏まえた言葉です。 その昔、衛という国に蘧伯玉(きょはくぎょく)という賢者がいたのですが、彼は50歳になった際に、過去49年の

十五夜に逢瀬を重ねる恋人たちの詩(欧陽脩『生査子』)

今回取り上げるのは欧陽脩の漢詩からの言葉。 月が柳の梢の先に差し掛かっている。 私たちは黄昏すぎに会う約束をしているのだ。 という意味。 正月十五日の夜にこっそりと逢引きをする約束をした、恋人たちの姿を詠った詩です。 月が柳の木の上に差し掛かっている様子と、相手が約束通り会いにきてくれるのかというドキドキ感がイメージできて、とてもロマンチックだなと感じます。 さて、どうして突然この漢詩をご紹介したかといいますと、本日(9月29日)が十五夜だからですね。 十五夜とは

初夏の色鮮やかさに心動かされるのはいつの時代も同じ(高駢「山亭夏日」)

今回取り上げるのは晩唐の漢詩からの言葉。 緑に茂る木々の影はくっきりしていて夏の日は長い。山荘の高楼は池の水に逆さまに影を落としている、という意味。 初夏の山荘から見た景色を詠んだ詩です。 きらめく太陽と濃い緑に囲まれた風景が目に浮かんできます。 梅雨ということもあって最近は雨の日が多かったのですが、今日の朝は久しぶりに日光をいっぱい浴びることができました。 やっぱり天気が良いと気持ちが良いですよね。 普段はリモートワークで部屋に篭りがちなこともあり、「今日はでき

誰かの頑張る姿から活力をもらったら、悩まずに行動してみよう(魏徴「述懐」)

今回取り上げるのは唐初の名臣である魏徴(ぎちょう)の漢詩から。 人生とは意気に感じるかどうかである。相手の意気に感じるところがあれば、もはや功名を得るかどうかなど論外である、という意味。 相手の心持ちに共感して「自分も頑張りたいな」「何かやってみたいな」と思ったのであれば、損得など考えずにぜひ行動してみるべきである、ということですね。 「推し活」という言葉も流行っていますが、それと近いものがあるように感じます。 頑張っている人や努力している人を見ると、「応援したい」「

自分が満足できる記事が書けたならそれでいいじゃない( 杜甫『偶題』)

今回取り上げるのは杜甫の漢詩。 文章は古くから続く偉大なものであるが、その良し悪しは作者自身の心だけが知っている、という意味。 自身の「詩」への向き合い方を述べたものです。 杜甫は他人の評価ではなく、自分自身がどう思ったか、自分が満足できる出来栄えだったかを大事にしていたんですね。 自身の作品に対する評価軸をどこに置くかはとても大事だと思います。 他人軸にしてしまうと、周りから評価されなかった場合に心が挫けてしまいます。 思ったよりも見てくれない いいねやスキが

想いを伝えるとき、言葉は千金の価値を持つ(李白『寄遠』其十)

今回取り上げるのは李白の『寄遠』其十からの言葉。 思い人は遥か遠くの地。私の思いを届けようとするこの一通の手紙は、千金にも値する大切なものなのだ、という意味。 西域に出征している夫に宛てて送る妻の手紙を詠っています。 今は指先一つで世界中の人とリアルタイムで繋がることができますが、当時は違います。 送った手紙がそもそも届くのか、相手は今も無事なのか、それすらわからない時代です。 最愛の人の無事を一心に祈る、送り手の切ない気持ちがよく伝わってきます。 私たちはネット

やりたいことは今すぐやろう。「いつかやろう」はきっとやらないから(『古詩十九首・生年不満百』)

今回取り上げるのは後漢王朝(25-220)のころの無名詩『古詩十九首・生年不満百』からの言葉。 楽しみにしていることをするなら時を失わないようにするべきだ、どうして来年を待っていられようか、という意味。 楽しみにしていることは「いつかやろう」と思うのではなく、今やりなさい、ということですね。 誰が作ったのかは伝わっていない無名詩ですが、時間はあっという間に過ぎ去ってしまうのだ、という儚さも感じられる素敵な詩だと思います。 昔の人も、やりたいことを後回しにしてしまって後

春に置いていかれるのは寂しいのでとりあえず弘前まで追いかけたい(欧陽脩「玉楼春」)

今回取り上げるのは欧陽脩の漢詩。 春は無情にもあっという間に過ぎ去ってしまうのだ、という意味。 人も花も春をとどめようとするけれど、そんな気持ちはお構いなしに、春は足早に過ぎ去ってしまう、という気持ちが込められた歌です。 時の流れと季節の移り変わりの儚さを感じます。 新年度が始まったと思ったら、気づけば4月も下旬ですね。 最近は蒸し暑い日も増えてきて、「もしかして梅雨を飛び越えてもう夏が来るのかしら?」とちょっと動揺している今日この頃です。 私の周りでは春が終わり