起床という体験をどう捉えるか
うたた寝をしているうちに夕食の時間になってしまった子を起こしたら、パニックを起こしてしまった。
遠足を終えてスキップで帰ってきたその子は、友だちと楽しくお弁当を食べた思い出を饒舌に語った後、アドレナリンが尽きたらしい。いつのまにか部屋で寝ていた。
部屋の外から何度呼んでもリアクションがなくて、もしやと思って扉を開けたら、案の定。枕とは反対側に頭があって、体を奇妙によじってぐうぐう寝ていた。
名前を呼んでも聞こえていない。
頭を軽くつっついてみた。おーい、起きろー。
その子はハッとして体を起こして、そうかと思ったら急に表情を苦しそうに歪めて言葉にならない呻き声を上げた。明らかに怒っていた。
気持ちよくいい夢をみていたところを叩き起こしてしまったみたいだ。ごめんねと言おうと口を開いたら、その子はバタッと再び布団に伏せって呻きながらドンドン足を蹴り始めた。やはり怒っている。
大丈夫、どうしたの?
わたしの問いに、「あーついー」と言って蹴り続ける。暑いというほどの気候でもないけれど、夢とうつつの間でいろいろバグっているんだろう。わたしが何か言うたびに蹴りが強くなっている感じがあったので、火に油を注ぐまいと一旦撤収した。
少ししたのち、その子はすっかり現実世界に帰ってきていた。おかえり。
わたしが普段なんでもないように繰り返している就寝と起床のサイクルは、仕事場の子どもたちにとってかなり負荷の高い作業である場合が多い。
現実世界は冷たくて厳しい。かといって内的世界がいつも安全なわけではなく、時としてとても混沌としている。
その二つの極を子どもたちが行き来するとき、わたしは彼らに「大丈夫」を用意したい。向こう側でもきっと大丈夫、やっていける。行ったきりじゃなくてちゃんと帰ってこられるんだ。
そんな安全基地をいつでも持てるように。
読書メモは、わたしのバイブル『生活の中の治療』より。